内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ストラスブールからの最初の記事」

2014-07-18 00:55:42 | 番外編

 六月四日の記事でも触れたことだが、いつも日本時間で午前零時に投稿することを習慣としているので、日本とは七時間の時差(夏時間の間)があるフランスでは、日本のその時刻は前日の午後五時である。だから、今日の連載記事も日付上は十八日になっているけれど、実際に書いていたのは前日十七日の午後五時少し前のことであった。
 その十七日に実際は書いた連載記事「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十三)」は、私にとって、記念すべきストラスブールで書く第一号記事となった。今日(十七日)の昼過ぎにストラスブールの新しいアパートへの引越し荷物の搬入が済み、今、まだ本がぎっしり詰まった段ボール箱が山積みにされた書斎の中にようやく机を置くだけのスペースを確保して、そこでこの記事も書いている。二十一日には日本に発つので、この数日間は荷物整理、特に本の整理に追われるだけで終わってしまいそうである。
 引っ越しのときに一番うんざりするのが、本の詰まった段ボールの数とその重さである。引っ越し業者には荷物の搬出・搬入だけを頼んだので、箱詰めは自分の作業。ここ一週間あまりはその作業に忙しかった。日本にいる時から自分の引っ越しばかりでなく、友人の引っ越しを手伝った経験がかなりあるので、荷造りは得意な方であるが、それにしても、詰めても詰めてもまだこんなに残っているのかと、本棚の本を眺めては、何度も溜息をつきながらの作業であった。それに、段ボール箱の数が増えるにしたがって、それでなくても狭いパリのアパートの居住空間がますます狭くなり、引っ越し前日など、山積みされた段ボール箱の谷間に寝ていたようなものである。
 十七日付の記事は、だから、パリのアパートから投稿した最後の記事になった。それにも感慨を覚えないわけにはいかなかった。荷物が全部搬出された後の空っぽのアパートに一人残り、八年間暮らしたそのアパートでの最後の夜を、荷造りの後の重い疲労を感じながら、ワイン片手に過ごした。この八年間のあれこれの出来事を思い出しては、もうここに戻って来ることは二度とないのだと、いささか感傷的にもなったが、明日からはいよいよ自分の人生の新たなステージが始まるのだという新鮮な思いがそれに取ってかわるのにさほど時間はかからなかった。
 今度のアパートは、居住面積だけでもパリのアパートのほぼ二倍、それにそこで十分三四人で食事ができるほどの広さのベランダ、地下の物置、さらにはシャッター付き地下個別ガレージもすべて込みで、家賃はパリのアパートより二五%も安い。周りは溢れんばかりの緑に囲まれていて、書斎の正面には樹々が生い茂り、その木の間から日中柔らかな陽射しが差し込む。アパートの敷地を囲む蒼々と茂るポプラと糸杉の巨木が風に吹かれて葉を翻す音が聞こえてくる。大学までも徒歩と路面電車一本を合わせて三十分ほど。それに、このアパートを借りる決め手の一つにもなったのだが、新装オープンしてまだ二年ほどの市営プールまで徒歩五分なのである。買い物にちょっと不便なのが難点だが、商店街までの道も緑に恵まれた閑静な住宅街なので、散歩がてら買い物にでも行こうかという気分にもなる。
 現在連載中の記事「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学」は、七月三十一日をもって終了予定。そのときは東京の大学で集中講義の最中ということになる。八月十七日にフランスに戻る。すぐにはストラスブールに戻らず、翌日パリに到着する娘のアパート入居を二三日手伝ってから戻る。
 娘は来年の五月末までパリ政治学院で勉強する。先日DALFのC2に合格したと連絡があったから、学業の方の準備は順調のようだが、アパート探しに関してはちょっと私に頼りがちだったので、一昨日少しきつい調子のメールを送ったら、返事が来ない。手数料や前金など支払いは私がこっちで代行したよう結果になり、留学生のくせに少し甘ったれているんじゃないかと言っただけなのだが。もちろんこれは立て替えただけで、後で返してもらうことになっている。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十三)

2014-07-18 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(2)

 身体の現われが世界の現われに準ずる現われとして理解されるのではなく、まさに生命の現われの一つの発現として自覚されるとき、私たちの身体についての考え方に転換が起こる。この転換は、私たちの自己身体が世界を満たしている他の諸物体とはまったく異なっており、もはや見える身体ではなく、一つの「肉」、「見えない肉」であることの自覚によって引き起こされる(voir Incarnation, op. cit., p. 8-9, 369)。
 この〈肉〉としての身体の現象学的基底は生命の内に見出され、〈肉〉としての身体は生命からその現象学的諸属性のすべてを受け取っている。このように〈肉〉としての身体が生命にその一切を負っているという関係は、生命の自己顕現には〈自己〉が必然的に内含されているという本質的な理由に拠る。身体は生命とともに〈肉〉として生まれる。あらゆる点において生命に委ねられている〈肉〉は、その生命から己の現実そのもの、「自己印象」という「純粋な現象学的質料」を贈与されており、この質料が「情動的な自己触発の質料」に他ならない(ibid., p. 241-243)。
 〈肉〉がその可能性の一切を生命の自己触発から受け取っている現象学的質料であるからこそ、その〈肉〉は、私たちの身体に刻印される諸々の印象に、生ける現実性を与えることができる。あらゆる〈肉〉は、絶対的生命の「超-受容可能性」(« Archi-passibilité »)、つまり、「情感的な現象学的現実化様態に基いて己を己の内で己自身へともたらす本源的な能力」(« la capacité originaire de s’apporter soi-même en soi sur le mode d’une effectuation phénoménologique pathétique », ibid., p. 243)を前提としている。この超-受容可能性の懐に抱かれているからこそ、私たちの身体は受容するものと成ることができる。私たち有限な生命は、その受容可能性を、無限の生命の超-受容可能性から生誕時に無償で贈与されているのである。