内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十五)

2014-07-20 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(4)

 もし生命が「私たちに己を与えるのに、己自身以外何も必要とはしない」(Philosophie et phénoménologie du corps, op. cit., p. VI)のならば、生命は私たちに何も与えはしない。なぜなら、生命の自己贈与において起こっていることは、もはや私たちが私たちの世界内身体を苦しむことではなく、生命が私たちにおいて己自身を苦しむことだからである。
 しかし、私たちは、ここで、こう問わなくてはならないだろう。もし生命が決して自己外化することなく、不変の永遠の現在のうちに完全に引きこもっているとすれば、いったいどのようにして、生命は、〈他なるもの〉に対して、その〈他なるもの〉がある場所で、己を表現するのか。もし生命がその内在性の内に自己充足しているとすれば、生命に関する哲学的言説に対して、いかなる価値・地位を与えるべきなのか。絶対内在的生命に対して、そもそも哲学的言説はどのように己を分節化・差異化することができるのか。
 もし「孤独が生命の本質である」(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 354)のならば、生命は、〈他なるもの〉に己を伝えることはない。異なるものに自ら近づくこともない。生命は、永遠に同語反復的な内的独白を自己享受するばかりである。しかも、それは、外部に対する完全な無関心を伴っており、異なるものとはそれが何であれまったく関係がなく、存在の歴史の外にとどまったままである。孤独で黙せる生命は、二重の排除あるいは還元からなっている。一つは、己における〈他なるもの〉の排除であり、一つには、生命に対する表現の、事後的・表層的・外在的な層への還元である。
 確かに、生命の本質還元は、生命の自己感受をそれとして顕現させる。しかし、それと同時に、この還元によって、生命は、完全にその内在性へと退却し、その結果として、世界及び〈他なるもの〉との生ける接触を失ってしまう。ところが、この接触こそ、受苦と享受とを私たちの身体においてそれぞれ異なったものとして生命に経験させる一つの生ける現実そのものではないだろうか。