内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十四)

2014-07-19 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(3)

 私たちは、ここまで努めてアンリの意図に沿って理解を試みてきた絶対的生命の「超-受容可能性」という概念に対して、今や以下のような根本的な批判を向けなければならない。
 絶対的生命の超-受容可能性がもたらすのは、絶対的生命が己自身しか受け入れない、あるいは己に完全に従属するものしか受け入れないということである。もし「受け入れる」ということが、本質的に、他なるもの、異なるもの、知られざるものを己の内に受け入れることにほかならないとすれば、絶対的生命は何も、誰も受け入れはしないのである。絶対的生命は己自身のことしか苦しまない、ということは、何も苦しんではいないということである。なぜなら、絶対的生命は、己自身だけで常に完全に満たされており、初めから自分自身だけで充足しており、何らかけるところなき本質そのものだからである。
 絶対的生命がこの私自身として自己生成するということが仮に言えるとしても、それは絶対的生命の自己生成が私において繰り返されるかぎりのことでしかない。私が絶対的生命において生きているのではなく、絶対的生命が私において生きている、ということである。したがって、絶対的生命は、己の外に何も生成せず、何も産出せず、何も創造しない。
 絶対的生命は、その見えない王国の内に、他なるものの生誕、異なるものの来訪、未知なるものの到来を苦しみとともに受け入れることができない。絶対的生命の王国では、時間空間的に有限で、歴史的に限定され、それゆえ本質的に〈生命〉とは異なり、まったく〈生命〉とは異質な、私たちの世界内個別的身体がそこで市民権を持つことは決してない。私たちの身体が絶対的生命の王国に迎え入れられるとすれば、「主体性そのものの領域である実存の領域」(Philosophie et phénoménologie du corps, op. cit., p. 11)に私たちの身体が帰属し、外在性に曝されることの決してない「超越論的内的経験」(ibid., p. 271)を構成するかぎりのことでしかない。
 このような絶対的生命論は、以下のような帰結をもたらさざるを得ない。
 私たちの世界内身体は、空虚な屍に過ぎず、ただ朽ちてゆくほかない。たとえ世界の差異化の原理の体現であり、そのことによって世界と己自身とに或る一つの情感的で自己形成的な形を与え続けるとしても、私たちの世界内身体は、有限で死すべき存在として、物体の世界の中に投げ捨てられたままである。本質的にその世界とは異質である絶対的生命は、それゆえ、私たちの世界内身体を救いに物体の世界に来ることは決してないのである。