内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十一)

2014-07-16 00:00:00 | 哲学

3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(3)

 ミッシェル・アンリにおける受苦は、私たちの個別的な生命の一切の具体的内容とまったく独立に生きられる。互いに異なり、互いに対立し合い、しかも次から次へと移りゆき揺れ動く諸々の感情の底で、受苦は、ただ己自身において自己成就するものである。受苦は、それゆえ、私たちの生命のある特定の側面に限局されるものではなく、私たちの生命全体の隅々にまでいわば浸透している。受苦は、純粋な現象性が本来的に自己現象化するところの「現象学的質料」(« matière phénoménologique »)を私たちにおいて顕にするのである。
 受苦が私たちに感受させてくれるのは、「〈超-受容可能性〉」(« Archi-passibilité)であり、ただこれによってのみ、一切の自己による自己の感受が可能になるとアンリは言う(voir Incarnation, op. cit., p. 175)。生きることの本質は、情動的な自己触発の内在性における自己感受であり、そこには自己に対するいかなる隔たりも距離もない。そうであるかぎり、生命は、自己自身に対する根源的な受容性をその本性としており、本質的に、己自身を苦しむこと、己自身を受け入れることにほかならない。この原初的な受苦がすべての具体的自己受容経験の底に働いているからこそ、ある一つの苦しみがまさに苦しみとして私たちに与えられるのである。
 しかしながら、私たちは、ここで、アンリに以下のように問いかけなくてはならない。
 この原初的な受苦は、私たちにおいて感受される出来事としての受苦の必要条件しか与えないのではないか。この原初的な受苦という条件だけからでは、なぜある感情がある一つの調性を有っているのかという問いに対する答えを引き出すことはできないであろう。この諸感情間の差異は、それがもし世界の出来事からのみ結果するのではなく、その根本条件を私たち自身の内に探さなければならないとすれば、どのように説明されるべきなのか。ここにおいて、身体の問題が問われることになる。