先ほど投稿した二六日付の記事が滞在中の提携大学ゲストハウスからの最後の記事になる。今日二六日土曜日朝一番の関空発羽田行きで東京に戻る。
昨日金曜日夕刻からの日本語研修プログラム参加学生たちの送別パーティーへの出席が、現在の勤務大学の教師として私が自分に課した最後の「勤め」だった。今年で六回目だったこの三週間の研修も無事終了、参加学生十二名は、皆本当に最初から最後まで楽しむことができたようだ。毎年のことだが、別れを惜しみ、泣きじゃくる女子学生も少なくない。今年は、もう数日前から「フランスに帰りたくない」と泣き始めた子がいたほどであった。そんな彼女たち同士がお互いを慰めるように二人三人で抱き合ったり、友だちになった受け入れ大学の学生たちとも男女ともに抱き合ったりしているのがこの送別パーティーでは例年あちこちに見られる。
三週間、学生たちを喜んで受け入れて下さり、細やかな配慮と巧まざるユーモアとともに彼らと生活を共にしてくださったホスト・ファミリーの方々には、本当に心から感謝している。受け入れ大学のスタッフの献身的なサポートにはいつも頭が下がる。参加学生たちとの楽しい時間をたくさん作ってくれる同大学の学生さんたちとは、毎年このプログラムがきっかけで多くの友情が生まれ、それが大学を終えた後も続いていく。同じプログラムには、台湾と韓国からもちょうどフランス人学生と同数の学生さんたちが参加していて、彼らの方が日本語は遥かによくできるから、日本語のクラスは別々だったが、文化体験等のプログラムは一緒なので、皆すぐに仲良くなり、フランス人学生たちがたどたどしい日本語で彼らと楽しそうに会話しているのは、いつ見ても微笑ましい。
送別会も終わりかけた頃、十二名のフランス人学生たちが私の所に来て、これまでの私の講義とこのプログラムのフランスでの準備作業についての感謝と別れの言葉を送ってくれた。私からは、「この三週間は、君たちにとって日本人との付き合いの始まり、ここで出会った日本人、そして台湾、韓国の学生たちとの友情を大切に育てていってほしい。それこそがこのプログラムの本当の目的なのだから」と応えて、会場を後にした。
日も落ち、気温もいくらか下がった夜空の下、二〇〇九年に自分が立ち上げた企画にこうして一区切りをつけ、後任にいい形で手渡すことができることに満足感を覚えながら、ゲストハウスの自室へと戻った。明朝は五時にゲストハウスを出る。荷造りももう済んだ。
午前十時前には実家に着くだろう。来週火曜日から始まる五日間の集中講義の準備に直ちに集中しよう。
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(3)
しかしながら、昨日見た行為的直観の哲学は、歴史的生命の論理が、私たちの身体的自己において経験される矛盾的自己同一によって、生命と世界との区別、つまり生命の直接的自己感受と世界の多様な立ち現われとの間の区別の廃棄へと導くということを主張しているわけではない。それどころか、まったく逆に、まさに私たちの身体的自己においてこそ、この生命と世界という二つの次元は、それとして区別され、互いに他方とはまったく異なるものとして相互把握される。この本質的区別が、実のところ、西田においては、自覚と行為的直観との区別に対応している。
最後期の西田哲学において、前者が哲学の方法、後者が諸科学の方法の基礎とされ、両者が厳密に区別されていたことをここで思い出そう(本稿第二章「3 — 自覚と行為的直観との区別と関係」参照)。無窮の「徹底的な否定的分析」からなる哲学の方法として、自覚は、行為的直観と区別される(3月12日の記事参照)。この方法としての否定的分析は、一切の外的なものとの自己同一化を拒否する、純粋な作用としての自己形成作用に他ならない。この自己形成作用こそが生命の自己経験なのである。否定的自覚が私たちの自己において経験されるのは、この自己が直接的かつ内的に自己自身へと回帰するからであるが、しかし、その回帰は世界の内へと身体的自己が絶えず自己外化する自己否定の経験を通じてこそなのである。世界へと身体的自己を開く行為的直観から区別されながら、しかし、否定的自覚は、行為的直観と不可分であり、それだけ切り離して実行可能なものではなく、行為的直観によって開かれた世界の只中でのみ実現されうる。