内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十六)

2014-07-21 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(5)

 ミッシェル・アンリの生命の哲学の内部に立ち入るためには、内部と外部との根本的な断絶、そして不可視の生命と絶対的主体性との同一性を、どうしても不可疑な前提として受け入れなくてはならない。と同時に、徹底的な現象学的還元の名において、外的で歴史的に限定された諸事物からなる世界を、不可視な生命の王国にとって根本的に異なるものとして、決定的に排除しなくてはならない。アンリにおいては、私たちの身体は、それゆえ、その深部において二つに引き裂かれている。絶対的生命が己自身において感受されるところの見えない〈肉〉である生命そのものの内部性と、互いに他に対して異なり外なるものである諸事物の世界に投げ捨てられた身体である死そのものである外部性とにである。
 しかし、まさにここで、アンリが身体の現象学の先駆者と見なすメーヌ・ド・ビランが生涯にわたって倦むことなく繰り返し探索し続けた自己身体の内的空間を想起しなくてはならない。なぜなら、アンリの議論の中には、しかもそこにはビランへの明示的あるいは暗示的な言及が繰り返し見られるにもかかわらず、どこまでも距離なく己自身を感受する内部性と己の外にまったくの無関心とともに自己外化する外在性との間にこそ見いだされるべき、このビランの自己身体の内的空間への言及が一言も見られないからである。ところが、それ自体の固有性をもったこの空間は、純粋な内在性にも絶対的な超越性にも還元できないはずなのである。実際、この自己身体の情感的空間は、ビランにおいて、それ自体が「自己身体の直接的認識であり、この認識は、意志された努力への応答にのみ基づき、しかも意志に歩を譲るか従うかする器官的抵抗の認識でもある」(« une connaissance immédiate du corps propre, fondée uniquement sur la réplique d’un effort voulu, et d’une résistance organique qui cède ou obéit à la volonté », Maine de Biran, Essai sur les fondements de la psychologie, op. cit., Vrin, tome VII-1, p. 149)。
 この初元の本来的な認識は、感覚の自己差異化からなり、純粋な〈己自身を感じること〉によっては説明され得ない。なぜなら、この純粋な〈己自身を感じること〉にだけ基づくかぎり、どのようにして二つの感覚が「互いに区別され、場所的に限定され、互いに他方の外に位置づけられる」(ibid., p. 150)ということが起こるのか説明できないからである。