内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十)

2014-07-15 00:00:00 | 哲学

3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(2)

 生きること、それは「己自身を苦しむ」ことである(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 590)。受苦こそ生命の本質である。こうミッシェル・アンリは主張する。
 この主張に対して、私たちは次のようにアンリに問わなくてはならないだろう。生命の生きるものに対する関係とはいかなるものか。それなしには私たち生きるものが何であるか理解することができないこの関係とはいかなるものか。
 この問いに答えるためには、己自身へ己をもたらすことができる絶対的生命にまで遡行しなければならない。しかし、その答えとして、生命の生きるものに対する関係は、絶対的内在性の関係であると言うだけでは十分ではない。なぜなら、それだけでは、歴史的生命の世界において生きる有限存在である私たちによって生きられている具体的個別性と、私たちの行為的・受容的身体においてそれとして己自身を生成する真実在であるところの生ける普遍性とがなぜ同時的で有り得るのかという問いに対する答えとしては、十分ではないからである。
 この問いに対して、〈自己固有性〉(Ipséité)あるいは〈単一の自己〉(Soi singulier)を持ち出して来ても、やはり十分な答えを構成するには至らない。アンリによれば、私たちの現実的生命が己自身を感受することによって己へと到来することである〈自己固有性〉は、現実的な〈自己〉(Soi)であり、この〈自己〉において、〈生命〉(Vie)は、己自身を感受することによって、己自身に己を顕にする。かくして、〈生命〉の自己生成の過程が自己顕現の過程として成就される。この〈生命〉においてはじめて〈自己〉は己自身に与えられるのだから、〈生命〉なしには〈自己〉は在り得ない。
 このようにして、アンリにおいては、私たちの個別的自己は、唯一の〈自己〉として、〈生命〉の中に完全に没入してしまい、その結果として、私たちの生命の特殊性・固有性・単独性等は、〈生命〉において意味を失う。私たちの個別的自己は、有限の生命であり、己自身において己を己自身にもたらすことはできない。私たちが〈生命〉へと到来するのは、〈生命〉が己自身へと到来するかぎりにおいてであり、その到来の仕方にしたがってなのである。絶対的生命が「〈第一の生けるもの〉」(« le Premier vivant », C’est moi la vérité, op. cit., p. 76)の自己固有性において己自身を感受することによって己へと到来するからこそ、この生命の自己固有性において自己を与えらた人間存在は、超越論的な生ける〈自己〉として己へと到来する。私たちの生命の個別的な特殊性は、それゆえ、絶対的生命とは何ら関わりのないものでしかない。