内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十三)

2014-07-08 02:06:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(8)

 しかし、まさにそれゆえにこそ、私たちが先に立てた、主体性に対する世界の現象性の場所と様態に関する一連の問い(7月5日の記事参照)に対して、ミッシェル・アンリからまだ答えが得られないままである。しかも、表象を排除することによって得られる主体性の絶対化は、それだけでは、主体性が己自身にそれとしてどこで現われるのかという問いに対する十分な答えにはなっていない。絶対的主体性と世界の現われとが互いに他に対して限定し合い、それぞれそれとして生成するのは、本来的に、どこであり、いかにしてなのか、という根本的な問いと向き合うことなしに、これらの問いに答えることができるであろうか。主体性と世界の現われという、根本的で互いに他方には還元し得ない現われの二つの様式を徹底的に区別したとしても、そのことは、これら二つの様式の間のそれ自体還元不能な関係性についての問いを免除してくれるわけではなく、それらの間に「まったく関係はない」ということは、どこで、いかにして語りうるのかと問うことなしにすませるわけにもいかない。生命の自己顕現と生命に対して本質的に異質である世界の現われとの間に絶対的な区別を立てることによって、世界の現われには還元され得ない生命の世界において生命が己自身に己の内で現われるのはいかにしてなのかという問いを回避することはできないのである。