内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十二)

2014-07-17 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(1)

 身体は、それが私たち自身の身体であれ、他者の身体であれ、世界の中で私たちにその姿を現す。その世界に現われる身体は、己自身の現象学的諸性格の所有者、世界の現象学的諸属性を把持する主体、そして何よりもまず己の外在性の保有者である。しかしながら、この世界内身体は、外在的であるばかりでなく、多数の感覚的性質を有ってもいる。つまり、この世界内身体は、見られ、触れられ、聞かれるなど、感覚される身体であり、第二の身体 ― アンリの言葉では「超越論的身体」(« corps transcendantal », C’est moi la vérité, op. cit., p. 159)― を前提とする。この超越論的身体が諸感覚器官によって、感じ、見、触れ、聞くのである。
 フッサール現象学においては、これらの感覚的諸能力はそれぞれ異なった志向性として理解され、世界を構成する超越論的身体は志向的身体とされる。この意味において、私たちの身体は、世界の身体であり、世界へと私たちを開く。世界への開けがそれに基づくところの〈現われること〉は、対象としての身体がそれによって私たちに姿を現すところの〈現われること〉と同一である。
 ところが、見えるものをそれとして現われさせる志向性は、現象性において己を己自身へともたらすことができない。フッサール現象学が突き当たらざるを得ない解決困難な難問は、志向的身体へと還元された身体について提起されざるを得ない。アンリは次のように問う。「もし私たちの身体が近代哲学の意味において実存するならば、もし身体が私たちを世界へと開き、私たちが世界について持つ初元の知をその身体が規定するのならば、そのとき次のような問いが提起される。この世界を知っている身体は、いかにして己自身を知るのか」(« Le concept d’âme a-t-il un sens ? » dans Revue philosophique de Louvain, tome 64, 1966, p. 23)。
 アンリによれば、超越論的身体によって実行される各々の行為が、その行為によって与え得るものを私たちに現実に与えることができるのは、その贈与行為が実行される中でその行為自体の自己贈与が実行されているかぎりにおいてである。このような内在的な自己贈与は、生命においてしか到来しない。超越論的な現象学的生命は、情感的な自己顕現においてしか成就しない(voir Incarnation, op. cit., p. 189)。