内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十)

2014-07-05 00:00:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(5)

 昨日までの三日間、一日一つずつ見てきた世界の現われの三つの特質 ― 絶対的外在性・全体的無関心・根源的貧しさ ― は、明らかに、ミッシェル・アンリが内在と超越との間に見ている断絶を前提とし、そこから導き出されている。アンリにおいて、内在は、一切の世界の現われに先立って私たちの自己に与えられており、超越は、根源的な内在においてしか己を己として感じることができない私たちの自己には、それに至る途は完全に絶たれている。
 私たちは、ここで、アンリによって主張されるこの内在と超越との間の断絶に関して、次のような批判をアンリに向けなくてはならない。アンリの主張において、世界の現われの無力さは、そこに現実的に現われるものを直接の原因とするものではなく、世界の現われに固有な現実性を予め剥奪するという、世界の現われの外から何らの根拠づけもなしに課された前提から導き出されている。しかしながら、内在と超越とのこのような断絶の絶対性を主張するかぎり、まさにそれゆえにこそ、世界の現われについての基本的認識、つまり、〈現われ〉のそれ自身への現われの内在性において感受される確実性と同じだけの実効性を有った確実性を有ってこの断絶に根拠を与える認識が必要とされるはずである。たとえ生命の王国から世界の現われを追放するためだけであったとしても、その世界の現われを生命との対比においてそれとして確実性を有って識別することができなくてはならないはずである。さもなければ、それこそ生命の本質から程遠い、硬直化した教条的な言説に陥る他はないであろう。
 世界の現われそのものにおいての外、いったいどこで私たちは世界の現われの確実性をいささかでも感受することができるのだろうか。もし世界の現われが己自身をそれとして受け入れるということが私たちの自己において可能でないならば、世界の現われの構造をそれ自体において分析することがいかにしてできるのであろうか。