二〇〇一年に出版された『文化としての経済』(山川出版社)は、国際交流基金の機関誌『国際交流』(季刊)第八三号(一九九九年四月一日発行)の特集「文化としての経済」を書籍として再編集したものである。
その「はじめに」には、「«人間中心の経済 »を取り戻すために」という副題が付けられている。
いうまでもないことだが、「グローバル・スタンダード」は、「ユニバーサル・スタンダード」と取り違えられてはならない。「グローバル」(地球を覆う)は、現実の力関係の結果だが、「ユニバーサル」(普遍的)は人間の価値観に関わるものだ。「グローバル」な力によって、「ローカル」(地方的)に追いやられたもののなかに、そこに生きる人たちが世代から世代へと培ってきた「パティキュラー」(特殊)な価値観があり、それは、「グローバル」なものに対して弱小な「ローカル」なものだからという理由で、切り捨てられるべきではない。行き詰まった人類のこれからにとっての、真に「ユニバーサル」な価値観を模索するために、積極的に再考され、再評価されるべきなのだ(ⅱ頁)。
現実的に「グローバル」なものに「ローカル」なものが力で対抗しようとしても、たちどころに押し潰されるか、仮に対抗可能な勢力を形成し得たとしても、そこに生じるのは覇権争いであり、その結果の如何にかかわらず、「ユニバーサル」なものは忘却されたままだろう。「ユニバーサル」なものは、「ローカル」なのものにおいて、「ローカル」なものを超える価値として志向されるかぎりにおいて、「ローカル」なもの同士の間で共有可能になるのではないだろうか。
人間が自然と共生しながら、皆でできるだけ幸せに生きるために経済行為があるのではなく、経済原則、より正確には市場原理に奉仕するために、人間があくせく生きている、もしくは死にかけている、そして人間と自然の関係も、いたるところでバランスを崩しつつある現在の世界。「はたらく」ということ「ものをつくる」ということの、単なる経済行為ではない原初的な意味を問い直してみること、そして経済行為自体をもう一度、人間が生きる営みの総体のなかに置いてみること――それも近代資本主義経済の枠をはずした、古来の交換とか贈与とか、メセナとか、統計資料では把握できないが多くの社会で根源的重要性をもっている「インフォーマル・セクター」も含めた、時間的にも空間的にも人類的視野で――が、いまほど求められているときもないといえるのではないだろうか(ⅲ-ⅳ頁)。
近代社会の枠組みを超えた、より本源的に人間的な行為としての交換あるいは贈与を性格づけているのは、〈共約不可能なもの〉〈過剰なもの〉〈インフォーマルなもの〉が個人間、共同体間、地域間でやりとりされること、そのことから生まれる無償の「喜び」ではないだろうか。