内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己認識の方法としての異文化理解(二)

2015-01-07 12:48:52 | 随想

 理解するとは、どういうことか。これは、認識論の基本的な問題の一つであり、西洋哲学史においては、古代から現代まで、様々な仕方で営々と論じられて来た主題の一つであるから、二言三言でそれに答えが出せるような問題ではないし、ある哲学者に依拠すればそれで解決というものでもない。
 ここでは、だから、いちいちその名前を挙げることをせずに、暗黙のうちに幾人かの哲学者の考えを念頭に置きつつ、本論の議論の前提として、ごく簡略に、理解が成立するための必要条件を三点にまとめて、今日から一日一点ずつ提示していく。
 まず言えそうなことは、「理解は、その対象を必然的に要求する」ということである。裏返せば、対象なき理解というものはありえない。とすれば、その対象は、他の諸事象からそれとして区別されうるものでなければならない。しかし、その対象がすでに他の諸事象から十全に明晰判明に区別されたものとして、かつ他の諸対象との関係が一義的に決定できる仕方で立ち現れているのならば、その対象について、あらためて何か問うということも起こらないであろう。何らかの問いがその対象について起こるためには、その対象の他の既知の諸事象に対する関係がある点において不分明・不明瞭でなくてはならない。言い換えれば、ある対象がそれとして他のものから区別されつつ、それら他のものらが共有している自明性をその対象は共有しえていないときはじめて、その対象について、「何」「なぜ」「どのようにして」等の問いが成立しうる。
 以上から、理解成立のための第一の条件は、次のようにまとめることができるだろう。
 理解は、常に、既得の自明性の地平を前提とする。より詳しく言えば、ある対象を理解するために問われる「何」「なぜ」「どのようにして」等の問いが成立するのは、それらの問いを立てずに済む諸対象によって構成されている既得の自明性の水位上においてのみである。