内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己認識の方法としての異文化理解(三)

2015-01-08 11:26:49 | 随想

 ある対象を理解するための「何なのか」「なぜなのか」「どのような意味があるのか」「どのような仕方でそうなるのか」等の問いが成立するためには、その対象がそのような問いを引き起こす未知あるいは不可解な対象として分節化される自明性の水位を前提としている。簡単に言えば、「当たり前」の世界の中に、当たり前でない物事が現われるときはじめて、理解という作業が要請される。
 では、そのような理解のための対象化の必然的契機は何であろうか。言い換えれば、ある対象が問いを引き起こす対象として世界の中で分節化されるのはどのようにしてなのか。
 この世界の分節化機能として、少なくとも三つの次元あるいは層を区別しなくてはならないと考えられる。そのそれぞれを「コトバ」「知覚」「言語」と呼ぶことにしよう。
 最も根源的な分節化機能を「コトバ」と呼ぶのは、井筒俊彦に倣ってのことである。コトバとは、世界で使用されている多数の言語の単なる集合でもそこから抽出された共通性でもない。そのような諸言語の生成の前提となる根源的分節化機能のことであり、これがなければ、そもそも世界の中に対象そのものが現れてこないし、その対象を対象として認識する主体もそれとして分節化さず、機能しない。端的に言えば、コトバは、世界に初めの「異なり」をもたらす。
 二つの目の次元ないし層として区別されるべきなのは「知覚」である。これは、コトバをその前提としつつ、感覚的身体とその行動による分節化である。この知覚的に分節化された世界においてのみ、身体は一定の法則と規則にしたがって行動することができる。西田幾多郎の言う「行為的直観」は、この第二次元・層を含みつつ、基本的にはコトバの次元における基礎的経験と考えることができる。
 第三の次元・層である「言語」は、諸言語によるそれぞれに異なった世界の分節化である。文化事象がそれとして理解の対象として現われ、それに対して具体的に問いを立てることができるのは、この次元においてである。しかし、それは、すべての文化事象はある言語の体系に還元され得るということを意味するのではない。言い換えれば、ある同一言語の使用者たちは、まったく「同じ」文化を共有しているとは限らないということである。同じ言語を使用しつつ、行動の原則において異なるということは大いにありうることだからである。
 以上のように、「理解するとは、どういうことなのか」という問題を考えるときには、少なくとも、「コトバ」「知覚」「言語」という三つの次元・層を区別し、それらの間の相互的な動的関係性を把握する必要がある。