本書には、二つの講演、さまざまな機会に日本について書かれた六つの文章、そして巻末にK先生との対談が収められている。巻頭に据えられているのが「世界における日本文化の位置」(Place de la culture japonaise dans le monde)と題された講演で、一九八八年三月九日、京都において国際日本文化研究センター(日文研)の最初の公開講演会で発表され、同年、雑誌『中央公論』五月号に日本語訳が掲載された。その後、仏語原稿が Revue d’esthétique, n° 18, 1990, p. 9-21 に掲載された。
この講演のタイトルは、レヴィ=ストロース自身によって選ばれたものではなく、講演会主催者側から課題として与えられたものである。この課題がレヴィ=ストロース自身にとって「おそろしく難しいもの」に思われる理由を語ることからこの講演は始まる。その理由はさまざまあるとしながら、実際的な理由と理論的な理由を特に取り上げる。
実際的な理由とは、日本文化に関心を抱き、魅惑されてはいるが、日本についての知識は表面的であり、何よりも日本語を解さないゆえに、仏訳や英訳を介した断片的な知識しかなく、美術や工芸についても、その鑑賞の仕方は外面的だからということである。
しかし、このような事実的な認識の制約は、ごく一部の飛び抜けた日本学者を除けば、ほとんどすべての外国人研究者に当てはまることで、特別なことではない。
それに対して、理論的な理由として、異文化理解にとって、さらに一般的には、文化理解ということについて、根本的な問題が提起される。その部分を引用する。
人類学者として私は、一つの文化を他のすべての文化との関係のなかに客観的に位置づけることは果たして可能であるのか、疑念を抱くのです。たとえ言語や他の外面的な手立てを身につけたとしても、ある文化のなかに生まれ、そこで成長し、躾られ、学んだ者でなければ、その文化の最も内奥の精髄が位置する部分は、到達不可能なままにとどまるでしょう。なぜなら、諸文化はその本質において、共通の尺度で測ることができないからです。さまざまな文化のうちの一つを明らかにするために私たちが用いる規準は、対象となる一文化に由来しているか、他の文化に由来しているかのいずれかです。もし前者なら客観性を欠くことになりますし、後者であれば当然不適格となってしまいます。日本文化、あるいは何であれ他の一つの文化を、世界のなかに位置づけるために有効な判断をもたらすためには、すべての文化への関わりを断たなければなりません(13頁)。
この現実にはありえない条件が整ったときにしか、ある一つの文化を他のすべての文化との関係の中に客観的に位置づけることができないとすれば、私たちは最初からそのような試みは断念せざるをえないように思われる。レヴィ=ストロースは、この後、人類学者として、このようなジレンマ ― というよりも私はアポリアとさえ呼びたいが ― の出口は、「あると信じている」という。しかし、その出口を見出すためには、どのような条件が必要で、またどれだけの代価を払うべきなのかと問う。