内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己認識の方法としての異文化理解(四)

2015-01-09 11:26:10 | 随想

 理解が成立するための三番目の条件を考えるために、次のような問いを立ててみよう。「わかる」と「理解する」とは、同じことか。
 この問題をまずは文法的な問題として考えてみる。今日の実際の運用では、「わかる」を他動詞のように使う例もしばしばみられる。つまり、「~をわかる」という言い方が通用するようになってきていることを認めざるをえないが、「わかる」は、本来は自動詞であり、「~がわかる」とするのが正しい語法である。この自動詞としての「わかる」の意味は、「あるものが他のものから判明に区別されている」「あるものが他のものと関係において、あるいはそれ自体において、明瞭に分節化されている」ということである。
 例えば、「私はフランス語がわかる」と言うとき、それは、「フランス語がそれ自体として明瞭に分節化されたものとして、他のものからはっきりと区別されたものとして、私には現れる」ということで、その含意として、「私はフランス語を正しく運用できる」ということも主張されているが、この文の基本的な意味は、あくまで、「フランス語が私の知覚世界の中で有意的に明瞭な仕方で現われる」ということである。
 このような知覚世界の中で、私は、フランス語の文法規則に従って、あるいは、その一般的に通用する語法に従って、フランス語を運用できる。一般化して言えば、「何かがわかる」というとき、それは、その何かを支配している「規則に従って行動することができる」ということを意味している。
 しかし、その運用能力は、その規則を一定の術語体系を用いて説明できるということを直ちに意味しない。これは、母語の運用のことを考えてみればすぐにわかることであろう。日本語を母語として話しているということは、日本語の文法規則を説明できるということ直ちに意味しないことは、一般の日本人にとって、むしろ普通のことであろう。例えば、「が」と「は」との文法的価値の差異という、難題に解答をうまく出せない日本人が、両者の使い方を誤るということはまずないというのは、特に驚くべきことではないし、一見もっと簡単で日常的な語法でも、どうしてそうなるのか説明しろと言われれば困ることはしばしばあるだろう。つまり、「ある言語をその文法に従って事実話せる・運用できる」ということは、「文法用語を用いてその言語の機能を説明できる」ということとは同じではない。
 この帰結を、一般化すれば、「規則に従って行動できる」ことと「規則の理由を説明できる」こととは違うということになる。この後者が「理解する」ことだとすれば、「わかる」と「理解する」とは、それぞれ異なった認識過程を意味していることになる。
 もちろん、この両動詞の現実の使用例には、このように判然と区別できない場合が多々あり、それらを無視しようというのではない。ここでは、ただ、理解の成立の条件を浮き彫りにするために、「わかる」と「理解する」との間にこのような区別を立ててみようというだけのことである。
 ある事象が「わかる」とは、その事象が明瞭に分節化された世界の中で、その分節化を支配している規則に従って振る舞うことができるということだとすれば、ある事象を「理解する」ためには、それを対象化し、他の諸事象との一定の関係において位置づけうる、その諸事象とは別次元に属する概念のシステムが必要とされる。「わかる」とは、ある規則の体系が支配する空間の内部でその規則にしたがって行動できることであるとすれば、「理解する」とは、その空間内の諸事象とその外部にある一定の概念のシステムとの間の一定の対応関係を了解する、あるいはそれを成立させることだと言えるだろう。