内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『文化の未来』

2015-01-20 03:31:38 | 読游摘録

 K先生が日本から送ってくださった編著の残りの四冊を出版年順に列挙すると、『文化の未来』(未来社、一九九七年)、『文化としての経済』(山川出版社、二〇〇一年)、『近親性交とそのタブー』(藤原書店、二〇〇一年)、『響き合う異次元 音・図像・身体』(平凡社、二〇一〇年)となる。今日の記事では、「開発と地球化のなかで考える」という副題が付いた『文化の未来』を紹介する。
 同書の「編者あとがき」から、この本が一九七七年三月十五、十六日に東京浜離宮朝日小ホールでおこなわれた東京外国語大学主催の公開シンポジウムの記録だとわかる。本にするにあたって、一般参加者からの質問への答えも含めて、パネリストたちが加筆している。
 二十一世紀における文化の問題性がさまざまな角度から論じられているが、K先生による冒頭の問題提起の中の「文化の政治性・暴力性」と題された一節を引用する。

 文化というものが、現代の私たちにとって問題になるのも、文化が決して平等に平和に共存しているからではなく、政治・経済を背景にした、多くの場合強弱の不均衡な力関係の中にあるからだ。人間が生きる営みの総体としては、文化はその多くが、とりたてて意識されずに生きられるはずのものだ。しかし文化のある面が、言語や宗教における抑圧や差別によって起るように、意識化され、問題化されざるをえない場合もあり、また、政治・経済上の不平等や差別に対して異議申立てをするときの自己主張のよりどころとして、文化がことさら純化された形で、「失われた美しい伝統」として、意識化されもする。民族という旗印に名をかりた運動で、文化があたかも一定の集団に固有の実体として、他の文化からは境界をひいて区別されうるものとしてあるような主張がなされるのも、こうした場合であるといえる。
 文化が、個人によって、それも一貫性なしに担われているとすると、個人の集合である社会、それ自体人間の生きる営みである文化の一部でありながら、文化が伝達され、生きられ、作られる「場」でもある社会の中で、文化は、当事者たちによっては規範として意識化されうる志向性の束として、外からの観察者にとっては、当事者たちの行動や、彼らが規範として語ることの全体の中に認められる傾向性として、それぞれあるといえるだろう。いずれにしても、それは他の文化との間にはっきりとした境界をもった、一定の人間集団に固有のものとしては決められないものだ(11-12頁)。

 現在の世界情勢の中では、宗教の政治性・暴力性がとりわけ問題にされうるだろう。広い意味での文化の一部として一つの宗教を、それが信仰として認められている社会の中に位置づけ、そこで民族・国家・地域などの概念とどのように関係づけられているかを、一方では当事者として、他方では外からの観察者として、二重の観点から意識化し考察することで相対化し、あらゆる意味での狂信から己を解放することができるかどうか。これが現在私たちに課された課題の一つであると思われる。