内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己認識の方法としての異文化理解(八)

2015-01-15 02:56:32 | 随想

 自文化の起源・源泉は、必ずしもその文化そのもののうちにはない。そのすべてではないにしても、自文化の主要な構成要素のうちには、それらの起源が異文化のうちに見いだされるものも少なくない。この特徴は、日本文化について特によく当てはまる。現代日本の文化の中に西洋文化に由来する要素があることは言うまでもないとして、より一般的に、日本文化を構成する諸要素の起源にまで遡れば、それらのほとんどが日本の外部に由来する要素であるとさえ言えるであろう。
 そもそも、自文化から「外なるもの」を排除し、「内なるもの」だけでそれを規定しようとすること自体が方法的に妥当性を欠いているのであろう。起源が己の外部にあるものを「外来」とし、それが元々己の内に見出しうるとされるものを「土着」とする二分法自体が、自文化および異文化の理解を妨げる最大の障害になりかねない。

抑々、日本思想における外来性・土着性とは何か。仏教的・儒教的、云々的という仕方で外来性を述べたてていくとき、土着的・固有的なものとして一体何が 残り得るであろうか。なるほど、神話的・民俗的な"固有思想"や"皇室中心主義的思想"の如き幾つかのモメントが残るかもしれない。しかし、思想史的にみて、また比較文化論的にみて、真に「日本的」と形容されるに価するものは、果たしてそのような"土着的"なモメントであろうか? 鎌倉時代以降の「日本仏教」や江戸時代後半の「日本儒教」のごときは、優れて「日本的な」思想形象ではないのか? なるほど、それらは「仏教」であり、「儒教」であるというかぎりでは外来的かもしれない。しかし、そのように言うとき、西洋文化なるものも、宗教にせよ学問にせよ、西洋諸国自身にとっての外来文化、すなわちヘブライ・ギリシャ的な外来 文化と称せざるを得なくなるであろう。認定の基準を余程明確にしつつ思想的内実を詳らかに検討することなくして、安直に外来的か固有的かと劃することは、思想史的分析や思想的討究においては百害あって一益もない。
(廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史へ一視角』講談社学術文庫、1989年p. 212-214)

 この廣松渉の指摘は現在もなおその妥当性を失っていない。「自己に固有なもの」をいたずらに賞揚する自文化中心主義も、外来文化の優越性を手放しに強調する自虐的文化観も、「外来的か固有的か」という非生産的な二元論に陥っているという点においてなんら違いはない。
 それに、そもそも、なぜ、「自己に固有なもの」は「外から来る他なるもの」よりも己にとってより価値があると言えるのであろうか。この問題については、二〇一三年八月九日の記事「外なる源泉への回帰 ― ヨーロッパ文化の起源」の中で論じられているので、そちらを参照されたい。
 自文化の遙かなる外なる源泉への回帰は、異文化ならびに自文化を理解しようとする者を自ずと謙虚にする。と同時に、その源泉は「己に固有なもの」ではなく他者に対しても開かれたものであるがゆえに、その源泉を介して、自己と他者との間に共通理解の場所が開かれうる。そこにおいてはじめて成立する自己認識は、自己変容をもたらさずにはおかないであろう。異文化と自文化との間に開かれる、共通の外なる源泉についての相互理解を通じて、私たちは自己の可塑性を自覚することができるようになるだろう。