昨日紹介した本も今日紹介する本も、奥付を見ると、出版年はいずれも二〇〇四年、前者が七月、後者が八月に第一刷発行(岩波書店)と、立て続けに刊行されている。前者が折にふれて書かれたエッセイ集という性格を持っているとすれば、後者は、K先生の二十年来の学問研究の成果が凝縮された非常に密度が高くかつ視野の広い人類学研究の書であると同時に、二十一世紀の人類学の可能性を問う提言の書でもある。
既刊の複数の論文あるは口頭発表を基に、それらを統合・発展させ、大幅に加筆あるいは改稿した論考が並んでいる。それらの論考で問い直されているのは、言語、民族、地域、歴史、文化、他者認識などの人類学の基本的諸概念だが、それらの論考を通じて問われ続けているのは、端的に、「人間とは、いったいどのような生き物なのか」という根本的な問いである。
「序 人類学的認識論のために ―「私」と人類のあいだ ―」は、K先生ご自身の人類学者としての五十年近くの多方面に渡るパイオニア的な諸研究の成果に基づいた、二十一世紀に向けての新しい人類学の方法序説として読むことができる。その序は、次のように自らに問うことから始まる。
人類学とは何か。日本の大学で文化人類学、自然人類学も含めた最広義の人類学を学び、その後五十年近く、日本やフランスやアフリカで、人類学と呼ばれる領域の学問一筋に生きてきたが、人類学とは何か、というより何であるべきかが、まだ私にはわからない(1頁)。
改めて自分にこう問いかけたい気持ちが強くあると先生は言う。そう自問せざるを得ないのは、自らが他者たちと共に生きる時代と世界の現実と人類の未来とについて常に切実な関心を持ちつつ、自らの学問の道を切り開き、人類学研究を重ねて来られたからこそであろう。
私にとって、人類学のこころざしの一つは、近代とされているものの総体を、根底から、つまり語義通りラディカルに、相対化することにある。相対化するとは、ヨーロッパに始まって「近代」を生み出したもの、それが発展してグローバル化しつつあるシステムや価値観の総体を支えているもの自体が、一つのローカルな生成物であることを、人類学という視野で明らかにすることだ。「グローバル」に対して「ローカル」、「メジャー」に対して「マイナー」であるのは力関係によるものであって、「グローバル」の価値が普遍的であることを意味しない。だが、なぜ「近代」はヨーロッパに形成され、他の地域ではなかったのか。元来ローカルなものとして形成された「ヨーロッパ近代」が、なぜ他のローカルなものに対して強力になり、「グローバル化」へ進んだのかが、同時に問われなければならない(2頁)。
人類学の使命の一つが、この引用に見られるような近代の根本的な問い直しであるとすれば、まさにその近代の産物であり、しかも学問分野としては比較的歴史の浅い人類学は、近代の内在的超克を目指す学問であり、特定の専門分野として自閉することは許されず、むしろ他の諸学問に対して、その暗黙の前提を根本的に問い直す「メタ・サイエンス」として機能しなくてはならないであろう。
近代化を基礎づけている思考は、すべてを量に換算して重要度を量ることを基本とする「定量的思考」であり、それと不可分に結び合わされている価値意識は、「目的志向」であるとK先生は言う。この目的志向性は、合理主義、能率主義、実利主義、契約にもとづく人間関係と結びつく。これら近代性を特徴づけている諸価値に対比されているのが、量の多寡に関わらず、個々のものを他から差異化している質に重きを置く「定性的思考」であり、それと結び合わされた「過程尊重」の価値意識である。
このような見方に従うとき、「近代的思考」によって精神を疲弊させている私たちでも、「過程尊重」の「定性的思考」をすっかり忘れ果ててしまっているわけではないことに気づかないであろうか。私たちがもうほとほとうんざりしているとも言える「近代的生活」から抜け出すための扉は、私たちの日々の暮らし方の中に最初から開かれているとは言えないであろうか。