内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己認識の方法としての異文化理解(一)

2015-01-06 14:09:48 | 随想

 来月五日に予定されている講演の骨子はもう固まっていると一昨日書いたが、肉付けはこれからで、講演まで一月を切ったところで、そろそろ少し焦る気持ちが出てきた。しかし、この気持自体はいつものことなので、慣れており、特に心配することもない(と自分に言い聞かせている)。が、やっぱり気になる。だから、このブログの記事として、少しずつ覚書を書き留めておきたい。
 講演のテーマは、「自己認識の方法としての異文化理解 ― 自己変容としての理解 ―」とした。これだけで凡そ内容の見当はつくであろうし、どんな結論にもって行きたいかも想像できるであろう。しかし、そう言っては身も蓋もない。それに、大切なのは、推論の過程である。その過程を辿っていこう。
 出発点は、「なぜ異文化理解についてはしばしば語られるのに、自文化理解とは余り言われさえしないのだろうか」という疑問である。
 「異文化理解」という言葉は、日本の大学に話を限っても、しばしば話題になるばかりか、至るところで講義科目名としてさえ採用されている。ところが、「自文化理解」という科目名はおそらくどこの大学にもないであろう。「異文化コミュニケーション」などという、いかにも怪しげで中身の薄そうなコースまであり、しかも学生たちに人気まであったりするようであるが、「自文化コミュニケーション」などという科目を開講しても、おそらく履修者は限りなく零に近く、したがって直ちに閉鎖されるであろう。
 ここから第二の問いが出てくる。なぜ「自文化理解」ということは、問題とされないのであろうか。それが既に理解されているからなのだろうか。あるいは、そもそも「自文化」なるものは、理解の対象とはならないから、或は、なりえないからであろうか。
 この第二の問いに答えるためには、「理解するとは、どういうことか」という問いに予め曲がりなりにも一応の答えを出しておかなくてはならない。
 ここから本論に入っていくのであるが、日本滞在中に処理せねばならぬ案件がまだまだあり、ブログの記事執筆に充てることができる時間はきわめて限られているので、今日はここまでとし、明日以降に続きを書く。