内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

クロード・レヴィ=ストロース『月の裏側 日本文化への視角』を読みながら(三)

2015-01-31 05:26:08 | 読游摘録

 ある文化を外から考察する者がどうしても抱くことになる、歪曲された知識、しばしば犯すひどい評価の誤りなどを認めた上で、それらが代価をもたらすことがありうることにレヴィ=ストロースは注意を促す。

遠くからしか事物を見られないという運命を負い、詳細を知ることができない人類学者は、そのおかげで、文化のさまざまな面に、諸文化を通じて不変の性質を感じとるのです。これは人類学者が知りえない、他ならぬ差異が覆い隠しているものなのです(15頁)。

 自分が属している文化から考察する対象となる諸文化が遠ければ遠いほど、それらの文化の中で生きられているそれぞれに異なった細部は見えなくなり、その異なりが覆い隠していた諸文化間の共通性が現れてくる。この点で人類学は、ごく初期の天文学に似ているとレヴィ=ストロースは言う。

私たちの祖先は、望遠鏡も、宇宙についての知識もなしに、夜空を眺めました。星座に名前をつけて、一切の物理現的現実と無縁な、星のグループを認めました。各々の星座は、人の目が同一の面に見る星で構成されているのですが、地球からの距離はまったくばらばらです。この思い違いのおかげで、天体の見かけ上の動きの規則性が、極めて早い時期に認識されたのです。何千年ものあいだ、現在にいたるまで、星座の知識によって、人間は季節の到来を予測し、夜の時の経過を測り、洋上で邦楽を知って来ました。ですから、それ以上のことを人類学に求めるべきではないでしょう。土着の人たちだけの特権である、内側から文化を知ること、これは人類学には決してできません。しかし人類学は土着の人たちに、彼らが身近すぎて知ることができなかった全体を眺め、いくつかの図式化された輪郭に還元された眺めを、提供することは少なくともできるのです(16頁)。

 このように人類学の立場を初期の天文学になぞらえるのは、あくまで講演の冒頭で自分の日本文化へのアプローチの仕方を限定するためで、これ以上人類学的認識の一般的方法論を展開することなく、ここからあとは「世界における日本文化の位置」というテーマにそって、レヴィ=ストロースは話を展開していく。
 しかし、この講演の主たる部分をなすその展開部に入る前に、上の引用について一言感想を述べておきたい。
 初期の天文学にとって、観察対象となる星々は、そもそも近づくことのできない遥か彼方にある対象群であり、その途方もない隔たりのおかげで、それら全体が地上から見た時の一つの投射面である天空上に天文学的な観察を始める前からすでに観察可能な対象として現われていた。ところが、人類の諸文化に対してそのような距離を取れる立場に、その人類の一部をなす一つの文化内の観察者である人類学者は、最初から立っているわけではない。にもかかわらず、そのような立場に立ちうると考えるのは、初期の天文学が地上の定点からの観測に基づき、それを普遍化することで成り立っていたのと同じように、自らの立場を定点としてそこからすべてが一様に対象化できると考えているからにほかならない。
 これはまさに西欧的な思考方法で、その中では、初期の天文学に観察対象である星の一つから自分たちが住まう地上を見たらどう見えるのかという問いが欠落していたのと同じように、観察対象である一文化から見たら自分が属する文化はどう見えるのかという問いは、そもそも問われ得ない。