内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『民族とは何か』

2015-01-17 09:48:14 | 読游摘録

 人類学者のK先生が日本から送ってくださった本はすべて、先生も発表者として参加された昨年秋のアルザスでの国際シンポジウムでの私の発表内容に直接的あるいは間接的に関わるテーマを扱ったもので、具体的に言えば、地域・民族・国家・共同体等をその主たる問題としている。
 五冊の単著が二〇〇四年以降に刊行された比較的最近の著作であるのに対して、十二冊の編著の中で最も刊行年が古いものは、一九八八年の『民族とは何か』(岩波書店)である。この編著の緒言は、先生ご自身がお書きになっていて、そのタイトルは、「いまなぜまた民族を問題にするのか」。まさに今現在また問い直されなければならない問いの一つであり、それがこうして私自身にもつきつけられたかのような不思議な暗合を感じる。
 同書は、各分野の一流の研究者たちがそれぞれの問題意識に基づいて自由に議論を展開した十四の論考が、第Ⅰ部「民族への視点」・第Ⅱ部「民族の生成と動態」・第Ⅲ部「国民国家と民族」の三部に分けて配列され、巻末には、十四名の執筆者・共同研究者にさらに若い世代の第一線研究者三人が加わった総合討論が収録されている。この討論記録も三部に分かれ、それぞれ「民族はいかなる意味で共同体か」「民族と国家」「現代世界におけるエスニシティ」と題されている。丸一日かけて行われたというこの討論の記録は、膨大な量にのぼり、編者二人がそれを全体の三分の一に短縮せざるを得なかったと「緒言」に断ってある。
 緒言の第一段落には、「これまで「民族とは何か」という問いを、関連する学問領域の研究者が共同で、まともに取上げようとしたことは一度もなかった。私たちの共同研究は、確たる見通しももてないままに、ただ「民族」の正体をつきとめたいという共通の熱意に支えられて実現した、そのような学際的な試みの一つであり、この論集はその模索の跡の文字化である」(2頁)と同書の初発の動機が明示されているが、その出版から四半世紀以上の時が経った現在から見れば、研究状況には大きな展開があったとはいえ、「民族とは何か」という問いは、今日もなお、もはや解決済みの問題であるどころか、ますます「まがまがしい響きをやどしたことば」(同頁)になっていることは、先週一月七日にパリで発生したテロのことを思っただけでも認めざるをえないのではないであろうか。
 テロ発生後、政治家たちによって、あるいは市民の間でも、「表現の自由」とともに「民族の多様性」が脅かされていると叫ばれていたが、一体何をもって「多様性」とするのか、と日本でのテレビ報道を見ながら私は独り呟いていた。「民族」そのものが同定可能な実体ではなく、時代とともに変化する可塑的な概念でしかないとすれば、その「多様性」を叫ぶ人たち自身の多くが、実は自分が何を言っているのかよくわかっていないのに、「何か自分たちの大切にしてきたはずのものが脅かされている」という不安を吐露しているに過ぎないというのが私の偽らざる感想である。
 自分たちの文化の中で発生したローカルな価値を、「普遍的なもの」として、暴力・武力・権力を振り回して押し付けておきながら、そして、それが脅かされれば「正当化された」暴力で「敵」を脅かし鎮圧しようと無益な犠牲者を繰り返し生み出しておきながら、文化的価値の「多様性」を訴えるという近代に固有の病的な偽善性を欧米人たちが自覚し、それを徹底的に自己批判しない限り、同様なテロは決してなくならないであろう。
 そして、その欧米の驥尾に付すかぎり、あるいは、「ポストモダン」の賞味期限が切れた後に、「ポストコロニアル」などと呪文のように唱えて得意になっている限り、日本の未来もかぎりなく暗い。