仕事柄というか、単に習慣からというか、毎朝日本の主要紙の電子版のトップ記事・速報・関心のあるテーマの特集記事をざっと通覧する。その中で特に興味を惹かれた記事は丁寧に読み、場合によっては授業で紹介する。
いつの頃からはわからないが、教育現場での教師の生徒あるいは学生に対する暴言(言葉の暴力)に関する記事をよく見かけるようになった。それらの記事を読むかぎり、「ひでぇことを言う教師がいたもんだ」と呆れるばかりだし、教師の質が全般的に低下しているのもおそらく事実なのだろうとは想像する。しかし、それぞれの問題場面でどのような文脈でその言葉が発されたのかは記事からだけではわからないから、実際のところはどうだったのだろうかと、すっきりしない思いがいつも残る。
日本とフランスとでは色々事情も違うし、自分も教師だからといって教師の肩を一方的に持つ気はさらさらないのだが、フランスの大学の教師になって丸十七年が経過して、教師と学生の関係がなんか変わってきたなあとつくづく思うことが最近ときどきある。
一言でいうと、冗談が通じにくくなった、と感じるのである。もちろん、これには、こっちが歳を取り、彼らとのジェネレーションギャップがどんどん広がっているということもあるだろう。こちらのセンスがどんどん古くなってゆき、私が受けを狙って言ったことが彼らにとっては面白くもなんともないということもあるに違いない。
それは差し引いたうえでのことだが、フランス語でいう second degré が通じなくなってきている気がするのだ。簡単な例を挙げると、野外でのイベントが予定されていた日に土砂降りとなり、イベントがやむなく中止になったとき、「ほんと、いい天気だねぇ」と溜息をつけば、表面的な意味とは真逆のことを言わんとしている。あるいは、ろくに勉強もせず、教室に来ては後ろの方でスマートフォンをいじっているだけの学生たちに対して、「君たちにみたいにいつも真剣に授業を聴いてくれる学生たちがいてくれてほんとうに私は嬉しいよ」と皮肉を言うような場合。
これは私だけの個人的な印象ではなくて、同僚たちも同じような経験をしている。特に一年生にその傾向が著しいという。これは彼らがまた精神的に幼いということもある。しかし、まさにそうであるからこそ、こちらが冗談のつもりでいったことを真に受ける学生が少なからずいるから、発言には気をつけないといけないと言っていた同僚もいる。
それから、これは second degré というよりも隠喩(というのも大げさなのだが)についてだが、別の同僚から一年生の授業であったこととして聞いた話である。年度の初回の授業で必読文献を「これは〇〇研究のバイブルである」と紹介したら、やおら「質問!」と手を上げた学生がいたという。その質問というのが、「先生、日本学科の勉強のためにも聖書を読む必要があるのですか?」。あまりに予想外の質問で、すぐにはリアクションを返せなかったそうである。
これらの同僚は二人とも四十代であり、私より二世代(あるいは三世代?)も若いわけであり、それだけ学生たちとのジェネレーションギャップは小さいはずである。その彼らにして、冗談が通じにくくなったという印象は拭えないのである。
ここから先、猜疑心に凝り固まった瘋癲老人の邪推と妄想である。
上記の問題は、単なるジェネレーションギャップに還元できる問題ではない。ことはインターネットの普及とAIの進化とに密接に関係している。ネットやAIが提供する表面に現れたことしか見えなくなってきているのだ。情報の洪水の中で表面に現れたことだけでいっぱいいっぱいとなり、その背後にあるものやそもそも眼には見えないものについての想像力、異なった解釈の可能性についての類推能力、物事をその文脈において適切に了解する判断力などが減退しているのだ。
このままいくと、人類自体が「オワコン」(この言葉自体がもう「オワコン」だそうですが)になってしまう日も遠くないかも知れない。しかし、いくらなんでもそうなるまでおそらく私は生きてはいないだろうというのがせめてもの救いである。いや、人生そう甘くないかも知れぬ。