内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「社会」から多くの人たちを排除する「社会人」という奇妙な日本語についての雑考(上)

2023-03-16 23:59:59 | 日本語について

 大学四年生が卒業を迎える今月、「この四月から晴れて社会人一年生」といった類の表現をよく見かける。この場合、「社会人」とは「実社会で働いている人」(『新明解国語辞典』第八版)のことである。「社会人学生」とは、すでに実社会で働きながら学生としても勉強している人たちのことだ。「勤労学生」とは異なる。こちらは、経済的等なんらかの理由で学業の傍ら働いてもいる学生のことだ。「社会人野球」とは、プロとも学生とも違い、企業所属のチーム間の野球を指すカテゴリーだ。
 ふと、この「社会人」という言葉の今日当たり前な使い方が気になった。いつから今日のような使い方が始まったのだろうか。
 「社会」という日本語が明治の初期に Society の訳語として使われ始めるまでの曲折ある経緯については柳父章の『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年)に詳しい。「社会人」という言葉ができたのは当然それ以後のことになる。しかし、いつ誰がどのような意味で使い始めたのだろう。
 『日本国語大辞典』電子書籍版によると、早くも一八七九年に『修辞及華文』(チェンバー兄弟編の『百科全書』の文学項目を菊池大麓が訳したもの)に、「高等の訓養を受くる社会人に在ては」という用例が登場する。これは、しかし、今日の用法とは違う。高等教育を受け、高度な教養を身につけ、社会においてそれに相応しい地位を持ち、その地位に相応しい振る舞いができる人、というほどの意味であろう。一言で言えば、文明社会の一員としての個人、ということである。
 漱石の作品に登場する「高等遊民」たちは「社会人」であろうか。これは単なる憶測だが、高等教育を受けた特権階級でありながら、その能力を社会において活かさず、自分もまたその中で生きざるを得ない社会に対して批判的で、その中に「居場所」や「活躍する場所」を見出し得ない人たちは「社会人」ではない、漱石ならこう考えたはずである。そうであれば、「高等遊民」は「社会人」ではない。ちなみに、「社会人」という言葉を電子書籍版の『漱石大全』で検索してみたが一件もヒットしなかった。