現代フランス語の用法で pâtit de というとき、前置詞 de の後に苦しみの原因が示される。その原因として、人も物も取ることができるし、行為・出来事・状況・事態でもありうるし、「不正義」のように具体的な出来事の負の側面を抽象的あるいは一般的に示すこともできる。引き起こされる苦しみは、身体的なものでもありうるし、精神的なものでもありうる。
例えば、 « pâtir du froid » と言えば、「寒さに苦しむ」ことであり、« pâtir de la guerre » と言えば、「戦争(という過酷な状況下にあって)苦しむ」ということであり、単なる身体的な苦痛にはとどまらず、より広く深い意味での様々な苦しみが含意される。これらいずれの場合も、苦しみの原因に対して苦しむ人は受動的であり、原因によって苦しみを被る立場にある。
古語としては、間接目的補語を取ることなく、自動詞として、「苦しむ」「耐える」という意味でも使われた。その場合、持続的な状態としての苦しむこと或いは耐えることを意味した。原因に対する一方的な受動性ではなく、原因のいかんに関わらず、苦しむという心身の状態あるいは経験を示す動詞として使われていた。しかし、たとえその苦しみや忍耐が持続的なものであれ、それとの対比としての喜びやそこからの解放あるいは救済が明示的あるいは暗示的に前提されている。つまり、pâtir は恒常的な人間の存在様態を示すものではない。
中世の神秘主義において、これらの一般的用法とは異なった意味で使われていた。それは「神の働きを受ける」という意味である。神が我が身において働くにまかせる、あるいは神の働きにこの身を一切委ねる、という意味で使われた。この場合、原因としての神が我が身に苦しみという結果あるいは状態をもたらすという因果的な関係が意味されているのではない。
一言にして言えば、根源的受動性と根源的能動性とが同じ一つのことであることの我が身における自証、それが pâtir である。