内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

Compatir(共に苦しむ)とはどういうことか(一)

2023-03-19 23:59:59 | 哲学

 その言葉自身には何の罪もないのに、人々がそれを乱用する(たとえ本人にはそのつもりがなくても)ことによって、その言葉がいわば手垢に汚れ、元の「姿」を失ってしまうことはよくある。
 「寄り添う」という言葉がその一例だ。もともとこの言葉に特別な意味はなかったが、おそらくフクシマ以後、頻用されるようになった。以後、私は一切この言葉を使わない(その理由については2021年6月20日の記事を参照されたし)。
 もちろんこの言葉を適切に、そして大切な思いを込めて使ってらっしゃる方々も少なくないであろう。しかし、他方では、この言葉を使いさえすれば何か良いことを言ったことになるかのように乱用し、結果、そもそもどういうことが問題なのか考えないという思考停止に陥っている人たちも多数いるのではないかと思う。
 なんでこんな話を性懲りもなく蒸し返しているかというと、Marie-Madelaine Davy の Traversée en solitaire で以下のような一節に先日出会い、以来 compatir ということについて考え続けているからである。

Berdiaev est déchiré, écartelé entre son besoin de lire, d’écrire, de s’adonner à sa création intellectuelle et sa « pitié envers les autres » (p. 49). J’ignore si le mot russe employé par l’auteur correspond à « pitié ». La traduction peut se montrer, ici, défectueuse. En tout cas, le terme ne me convient pas. Personnellement, je n’éprouve jamais de pitié pour autrui. Je me sens dévorée par une immense tendresse ressentie à son égard. Pourrait-on employer le terme de « compassion » ? Il me satisfait peu. C’est l’amour, la tendresse qui s’avèrent en mesure de rejoindre les autres. « Pitié » et « compassion » impliquent une certaine supériorité. 

Marie-Madelaine Davy, op. cit., p. 150.

 引用文中のカッコ内の頁数は、ベルジャーエフの知的自伝 Essai d’autobiographique spirituelle, Éditions Buchet / Chatel, Paris, 1992 のそれである。ダヴィは露語を解さないようだが、この自伝の仏訳者が使っている pitié という訳語に異議を唱えている。簡単にいうと、この語や compassion には、「上から目線」が感じられるが、ベルジャーエフの他者に対する態度はそれとは違うということである。彼女はベルジャーエフを直接によく知っていたから、その人柄と pitié とはいわば両立不可能だと言いたいのだ。
 Compassion というと、「同情,哀れみ,惻隠の情」(『小学館ロベール仏和大辞典』電子書籍版)ということであり、仏教が語られる文脈では「悲」の訳として用いられる。後者の意味は今措く。前者の意味で使われるとき、それがたとえキリスト教的な文脈であったとしても(いや、むしろそうであればなおのこと)、どこか「上から目線」が感じられるのは私も同じだ。
 この語がフランス語として登場するのは十二世紀半ば、中世ラテン語の compassio に由来する。ところが、compassion の動詞形と見なされる compatir がフランス語として登場するのは、ずっと時代が下り、Dictionnaire historique de la langue française (Le Robert) によれば1635年である。同形異義語であるcompatir という動詞は1541年に登場しているが、これは「両立可能」という意味で、今日でも compatible はこの意味で使われ、コンピュータ関連では「互換性がある」という意味で使われる。
 つまり、端的に「共に苦しむ」という意味で compatir が使われ始めるのは近代に入ってからのことなのである。現代フランス語では、間接他動詞として前置詞 à を伴ってこの意味で使われはするが、私にはこの前置詞 à の介在が com-(共に)という意味に微妙なニュアンスを加えているように感じられる。
 イエスの受難を意味する大文字の Passion を別格とすれば、今日 passion の一般的な用法の中に pâtir(苦しむ)というニュアンスはない。
 Compatir とはそもそもどういうことなのか、他の用例も参照しつつ、少し考えてみたい。