内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

お急ぎの方はどうぞお先に。私は「ここ」にとどまります。

2023-03-04 23:59:59 | 雑感

 昨年末から ChatGPT のことがメディアでも盛んに話題にされ、大学の同僚間でもこの問題についてのやりとりが活発だ。このような人工知能チャットボットが今後急速に発展・進化していくことは火を見るより明らかであり、それが教育現場にもたらす深刻な影響も不可避であろう。我が日本学科でも、受験者数が多い一年生の一月のオンライン試験で多数の学生がChatGPTを不正使用して解答したことが判明し、教室で再試験を行ったくらいである(そのことが「名誉にも」地元紙に取り上げられた)。
 不正使用をチェックするアプリも早速開発されてはいるが、それを使ってのチェックという作業が採点作業に加わることになるから、教師としては負担増ということになる。それに、レポート作成にチャットボットの使用が横行するのはもう当然の帰結で、だから成績評価のためにレポートを提出させるのは無意味化していかざるを得ない。
 より少ない努力で(というか、まったく努力をせずに)、得たい解答がごく短時間で得られる道具が無償で与えられれば、誰だって使いたくなるだろう。しかし、それは解答に至るまでのプロセスを自ら経験することになしに得られる結果であるから、何も学習したことにならないことは言うまでもない。その結果の信頼度にまだ大いに改善の余地があるにしても、それは徐々に改善されていくことだし、使用を禁止したところで、それはいたちごっこに終わるだろう。
 さまざまな労働の現場で、AIチャットボットによってより速く簡単に結果が得られ、その分他のより重要なことに時間と労力を割くことができるようになることは歓迎すべきことであろう。日常生活においても同じようなことが言えるだろう。
 教育現場に話を限れば、問題はどこにあるか。学生たちが問題解決能力や批判的思考力を自ら身につけることを無自覚に放棄することにある。だが、学生たちにそのことを警告してもほぼ無意味だと私は考えている。なぜなら、彼らができるだけ楽をして解答を得られる方に流れるようにしているのは市場そのものだからである。彼らはその餌食になっているだけのことで、本当は彼らの責任ではない。
 チャットボットが登場する何年も前、前任校にいるときから、私は学生たちの学習態度に明らかな変化が見られることに気づいていた。一言で言えば、「これやって、なんぼになります?」という市場原理に彼らの思考(あるいは思考停止)がコントロールされていることだ。結果として、「なんぼにもならん」(と彼らが信じ込まされている)ことには手も出さないし関心も示さない。
 より具体的に授業に即して言えば、「授業内容が(「ユーザー」あるいは「消費者」である)自分たちの求めているものに合っていない」とすぐにクレームになる。昨年、私自身の授業でそれをいやというほど味わった。
 だからといって、何か対策を講ずるつもりは私には一切ない。定年が近い私としては、もう何も抵抗する気はない。時代はますます急速に変わって(進歩して?)ゆき、私が時代から取り残されていくだけのことである。それでよいと思っている。開き直りでもなく、諦念でもなく、そう思っている。
 なぜなら、私のまわりを時代の激流が取り巻けば取り巻くほど、それとはまったく異なった経験の次元が開かれてくるからである。というよりも、もとからそこに変わることなくあった無尽蔵の経験の次元が自分の本来生きる場所であることがますますはっきりしてきたからである。
 お急ぎの方はどうぞお先に。私は「ここ」にとどまります。