手元にあるいくつかの仏和辞典で compatir を引いてみると、いずれもまず「同情する」という語義が挙げられている。これは、しかし、誤訳とまでは言わないが、誤解を招きやすい日本語である。
「同情する」という日本語は、日常語としてかなり軽い意味でも使われるが、compatir にはそのような「軽さ」はない。苦しんでいる他者と共に自分も苦しむことだからである。もっとも、『小学館ロベール仏和大辞典』には、« On compatit, mais on ne fait rien. »(人は同情はするものの、実際には何もしてくれない)という例文が挙げてあるから、日本語の「同情する」と重なる部分がないわけではない(ちなみに、この例文、Le Grand Robert の最新版には見当たらない)。
同じ苦痛を共に被った者同士、あるいは同じ災厄の被災者同士の間に共有される感情について compatir と言われることはない。つまり、compatir は、する者とされる者との間に非対称性と非相互性があるときにのみ成立する。言い換えれば、同じ事柄においてお互いに compatir し合うことはない。昨日の記事で引用したダヴィの文章の中にあった supériorité(優位、優越)とは、する者とされる者との間のこの非対称性と非相互性を指している。
では、compatir とは、自分はその当事者ではない苦しみを苦しんでいる人を前にして、そのような苦しみを苦しんでいる人がいるという事実をその人と同時に苦しんでいるということであろうか。つまり、二つの異なった苦しみが同時に苦しまれているということであろうか。
そのような場合も確かにあるであろうし、その場合にも compatir という動詞が使われることはあるだろう。共苦の対象とその共苦を苦しむ者との間には還元不能な差異があることを compatir à という間接他動詞を構成している前置詞 à は示している。
では、他者の苦しみを我が苦しみとすることなど、人間には所詮できないことだという見えやすい結論でこの話は終わるのだろうか。確かに、pâtir の対象が異なるかぎり、いくら共にあっても(com-)、それはほんとうの共苦ではない。シモーヌ・ヴェイユも『神を待ちのぞむ』の中で、「不幸なる者たちへの共苦は不可能である」( « La compassion à l’égard des malheureux est une impossibilité. »)と言っている。
しかし、結論を急ぐ理由はない。Compatir から 接頭辞 com- を切り離し、pâtir へといわば問題を還元し、そこから考え直してみよう。