内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

小失望連鎖症候群、慢性失望状態、そして、何も望まないという不可思議な待機態

2023-03-29 23:59:59 | 雑感

 大いに期待していた事が実現しなかったときは、やっぱり誰でも多かれ少なかれがっかりするものだろう。期待をかけていた人のそれを裏切るような行動を目の当たりにすれば、失望してしまうものだろう。それでもまた性懲りもなく期待してしまうこともある。あるいは、そんな失望はもう味わいたくないから、最初から期待しないといういわば失望予防法を事によっては採用する人もいるだろう。
 一つ一つは些細で相互に関係がなく日々の生活にほとんど何の影響も及ぼさない程度のことどもに関して、ちょっとがっかりするという経験が繰り返されると、その都度は気づかなくても、あるいは、「たいしたことではない」と軽く受け流していても、あたかもボディブローのように心身にじわじわとそれらが効いてくるということはないであろうか。
 自分でもなぜだかよくわからないうちに、徐々に気持ちが消沈してゆき、喜怒哀楽の感情が乏しくなり、積極的に行動する意欲を失い、すべてに関してなんかもうどうでもいいやという気分に支配されてしまうことはないであろうか。
 それはまさに鬱症状、あるいは鬱病の一歩手前ですよ、気をつけてください、と人は言うかもしれない。しかし、もう少し自分自身でこのような気分の理由を考えてみよう。
 なぜこんな気分を引きずっているのだろうと考えてみて、それは小失望の連鎖がもたらした結果だと気づく。こんな気分も、大抵の場合は、運動でもすれば解消される。私の場合は、毎日のジョギングがそのリセット効果をもっているので、小失望連鎖症候群と名づけたくなるような気分が何日も続くことはない。
 だが、最近、心のもっと深いところで、慢性失望とでも名づけられそうな精神状態が広がりつつある。それは何か特定の対象に関する失望ではなく、心が常に失望状態にあるとでも言えばいいであろうか。この深層における失望は、しかし、日常生活に直ちに影響を及ぼすわけではなく、日々を淡々と過ごすことを妨げることもない。
 ここまで読むと、やけに暗い話のように思われるかもしれない。しかし、実はそうではない。こちらからは何も望まないという心の状態は得ようとしてもなかなか得られるものではなく、ひとたびそこに至り着いてみると、逆説的に聞こえるかもしれないが、何も望まないという恒常的な待機態はある種の解放感とどちらかと言えば心地よい緊張感を伴っていることに気づく。
 このブログに表面的でくだらないことを綴っているときも、それはこの不可思議な待機態においてなのである。