内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

Compatir(共に苦しむ)とはどういうことか(六)― 黙せる被造物全体における神の現前の透見

2023-03-24 16:18:06 | 哲学

 エックハルトの説教一〇三番のマンジャン氏による注釈を読み続ける。
 魂における神の御言葉の誕生がそのまま私たちに見えることがないとすれば、どのようにしてそれを知ることができるのだろうか。
 神が魂の内奥にその御言葉を生むためには、すべての被造物が騒めくのを止め、沈黙しなくてはならない。しかし、魂において神の誕生が成就するとき、被造物らはただもはや障害とならなくなったばかりでなく、神をそれぞれの仕方で示現するようになる。

被造物らすべては、汝に神のことを、その誕生のことを語る。[…]汝は万物において神の誕生以外のことを捉えるのではない。[…]万物は、汝にとって、純粋にかつ単純に神となる。というのも、万物において、汝は純粋にかつ単純に神以外のことは思わず、愛さないからである。

説教一〇三番、マンジャン氏による仏訳からの重訳

 かくして、魂の内奥の経験は人の世界に対する関係をも変容させる。いや、より正確には、魂における神の誕生によって、創造全体が創造主を透見させる。