『日本国語大辞典』には、「社会を構成する一員としての個人」という意味としての「社会人」の用例として、次の二例が挙げてある。
「良人として、社会人としてほとんど破綻らしい影さへ見せずに来てゐた」葛西善蔵『湖畔手記』(1924年)
「今の世の法律、社会道徳に触れるやうなことは、矢っ張り仕て貰ひたくはない。それは俺が社会人だからだ。俗人だからだ」里見弴『大道無門』(1926年)
他方、「社会で職業につき、活動している人」という意味では、高見順の『故旧忘れ得べき』(1935~36年)から「学生から社会人に成長すると」という用例が挙げられている。
これだけの用例から確かなことは言えないが、以下のように推測できないであろうか。
「社会」という新造語が使われ始めた明治初期、「社会の構成員としての個人」という意味で知識人たちが「社会人」という言葉を使い始め、大正期までその意味でいくらかは使われたが、その後この意味で広く用いられることはなく、昭和に入り大学生の数が増えるにつれて、「学業を終え、職業生活を送っている人」を指す用法が優位を占めるようになり、大学が大衆化する戦後この用法が定着した、と。
今日では男女を問わず「社会人」という言葉が使われるが、戦前、さらにはそれ以前、高等教育を受けた女性がまだきわめて少数だった時代には、「社会人」という言葉が女性について使われることはほとんどなかったのではないだろうか。これは憶測に過ぎないが。
今日の一般的な用法に従えば、以下のようなことになる(予め要らぬ誤解を避けるために言っておくが、私はこの用法に賛成しているのではない)。
言うまでもなく、何らかの職業に携わる以前のすべての子供たちは「社会人」ではない。十八歳で高校を卒業してすぐ就職した若者たちはすでに「社会人」だが、二十六歳の大学院生はまだ「社会人」ではない。定職についていないポスドクもオーバードクターも「社会人」ではない。専業主婦も「社会人」ではない。リストラで失業した人たちも「社会人」ではない。何らかの理由で働きたくても働けない人たちも「社会人」ではない。職業生活を終えて年金生活を送っている人たちはかつて「社会人」だったが今はそうではない。介護を必要とするご老人たちも「社会人」ではない。
考えれば考えるほど、「社会人」という言葉は奇妙な言葉に思えてくる。「社会人」ではない人たちを「社会」の「お荷物」とする、さらにはそこから排除する、という点で、差別語だとさえ言ってもいいような気がしてくる。
学歴にかかわらず、職業の有無にかかわらず、端的に「社会を構成する一員としての個人」という意味で「社会人」という言葉が使われることはない。このことを現代日本社会の特異性の指標の一つとして挙げることができるかもしれない。