ネットの新聞記事のようにその日その日に書かれては消費されていくレベルの文章は、推敲と呼べるような注意深い作業はもちろん経ておらず、他者によるチェックが入っているのかも怪しまれる「粗悪品」であることが多い。商品としての「情報」さえ伝わればいい、ということだろうか。
大手新聞社の記事であっても、特に若手の記者の書いた文章には、間違って使われている慣用句や漢字熟語などをよく見かける。日々、取材と雑務に追われながらの記事執筆であろうから、落ち着いて文章を推敲する時間などないのだろうと同情しつつも、もう少し勉強しろと言いたくなるときもある。こんな粗製乱造を繰り返しているだけでは、新聞記者という文章のプロであっても、文章力は向上しないだろう。
私の授業では、新聞記事を取り上げることはまずないのだが、一般書籍はどの授業でも毎回必ず読ませる。一般書の中でも日本語として比較的読みやすいものを選ぶし、量的には一回の授業でせいぜい数頁なのだが、取り上げるテキストを授業の準備の際に読み直していると、日本語の表現としてちょっと気になるところに出くわすことがしばしばある。
例を二つ挙げてみよう。著者の名誉のために書名と著者名は伏せる。
一つ目の例は、高校生向けの日本史教科書の自由民権運動を説明している箇所に見られる表現である。「欧米の近代的な自由と民主主義の考え方」という表現である。文法的には何も間違っていない。しかし、「近代的な」は何を限定しているのだろうか。「自由」だけなのか、「民主主義」にもかかるのか、あるいはそれらではなくて「考え方」にかかるのか。日本語では限定句が何にかかっているのかしばしば曖昧になりがちだが、これはその一例である。文脈から考えれば、「考え方」にかかっていると見るのが妥当で、そうであるならば、「自由と民主主義という欧米の近代的な考え方」とすれば、上に指摘した曖昧さを回避することができる。
二つ目の例も、文法的には間違いではないし、内容理解においても誤解の余地はなさそうなのだが、フランス語に訳そうとすると、言葉が足りないことに気づく。
[…]そうした歴史地理的に恵まれない条件にかかわらず、たえず日本民族の文化的エネルギーは積極的に先進文化を取り入れ、これを消化して先進国に劣らぬ日本の文化を形成してきた。
どこが気になるかというと、日本の文化が劣らないのは「先進国」に対してではなくて、「先進国の文化」に対してである。だから、この文を仏訳すると例えば次のようになる。
Malgré ces conditions historiquement et géographiquement défavorables, les énergies culturelles du peuple japonais ont toujours activement adopté et digéré la culture avancée pour former une culture japonaise qui n’était pas inférieure à celles des pays avancés.
つまり、celles という指示代名詞(この文ではもちろん cultures を指す)が必要なのだ。仏語でさらに厳密さを要求されるのは、「先進国」の単複とその「文化」の単複である。この点、どれが正解かは原文の著者の考えに依存するので、文法的には決定できない。
私はここで、だからフランス語のほうが日本語より厳密だ、などと言いたいのではない。日本語としてはさらっと読め、一見誤解の余地もなさそうなところに、立ち止まって考えてみるべき問題が隠されていることがあり、外国語に訳すという作業はそのことに気づかせてくれる一つの手段となりうる、と言いたいだけである。しかも、これは先達たちによってすでに繰り返し言われてきたことに過ぎない。
日々消費されるためだけに書かれた文章の洪水の中で読み流しているだけだと、その洪水に実は流されているだけであり、ほんとうには何も読んではいない、ということになりかねない。そうはならないように、遅れることを怖れずに、気になるところで立ち止まって考えることを日々実践したい。このブログもいわばその実践の場の一つである。