今日の午前中、オフィス・アワーの時間に一年生の女子学生がひとりふらりとやってきた。私は一年の授業は担当していないので、教室で彼女を見たことはないが、他の先生との面会に教員室に来たとき何度かそのやりとりを聞いたことがあり、かねてから面白い子だなあと思っていた。
我が日本学科は、高校までの成績とバカロレアの成績が芳しくない入学生たちには、一年次を二年に分けて単位取得するようにさせている。彼女もその一人だが、実のところ、彼女は実に優秀な頭脳の持ち主だということが一年の前期の筆記試験の結果からわかった。高校までの成績とバカロレアの結果が総合的に芳しくなかったのは、関心のない科目にはまったく努力しようとしなかったからで、知的能力はとても優れているのだ。
ただ、なぜか自己評価が極端に低く、実際は一年次を通常通り一年で通過できる力を十分に持っているのに、自分から進んで二年かけて取得する方を選び、それにすっかり満足している。
年度はじめに、私と同僚の一人が分担して、彼女と同じように一年次を二年かけて取得するグループの学生たちの個別面談をするのだが、たまたま同じ部屋で同じ時間帯にそれぞれ担当する学生を面接することになって、私は自分の担当学生と面談しているとき、彼女と同僚とのやり取りが聞こえてきて、それがすこぶる可笑しくて、笑いを堪えるのに苦労した。
本人はいたって真面目というか真剣そのものなのだが、その質問というのが、直球そのもというか、唖然とするほどナイーブなのだ。例えば、「先生、良い学生であるためにはどうしたらよいでしょうか」とか、大真面目に聞く。同僚はうまくあたりさわりのない対応をしていたが、それぞれ面談を終えた後、「今の学生、おもしろいねぇ」と私がからかうと、「いやぁ~、ああいうタイプは〇〇(私のこと)に任せたいよ」と苦笑していた。
その彼女が今日の午前中、何の予告もなくふらりとオフィス・アワーのときにやってきた。「先生、一つ質問があります」―「なんですか?」―「日本学科と全然関係ない質問なんですけど、いいですか」―「かまわないよ。私で答えられることなら何でも答えますよ」―「私、サルトルが読みたいんです」―「ほう」―「でも何から読んだらいいかわからないから、おすすめを教えてください」―「サルトルっていったって、いろいろ書いているし、彼は哲学者、劇作家、小説家などと多才だからねぇ。君は特にどの方面に関心があるの?」―「哲学的な方面です」
というわけで、サルトルのいわゆる哲学的著作をひとしきり紹介する。「先生、別の質問があります」―「どうぞ」―「日本の哲学者では誰をまず読むべきでしょうか」―「フランス語訳がある哲学者に限って言えば、そりゃ西田幾多郎が二十世紀の日本を代表する哲学者ということになるけど、むずかしいからねぇ」と、二十世紀の日本の哲学者を網羅的に取り上げている論文集を勧めておいた。
「先生、もう一つ質問があります」―「遠慮なくどうぞ」―「先生の好きな本はなんですか」―「そりゃ、いっぱいあるよ。まあ、今読んでいる本の中から一冊だけ挙げるとすれば、Marie-Madelaine Davy の Traversée en solitaire かな」と答え、なぜ関心を持つにいたったかを少し話した。
これらのやりとりのなかで私が挙げた著者名と書名のすべてを驚くべき速さでスマートフォンに打ち込んだ後、「人生、一回きりですし、読みたい本は限りなくあるし、自分では選びきれないから、こうして先生たちに聞いて回っているのです。ありがとうございました。また質問があったら来ます」と言い残して、彼女は風のように立ち去っていった。