以下の論述は、エックハルトの説教103番のエリック・マンジャン氏による注釈の要点である。
魂における神の御言葉の誕生をエックハルトは二相において見る。それは魂の離脱と神の誕生との二相であり、それぞれ pâtir と agir という動詞に対応する。
両相は、一見時間的順序と持続性において捉えうるように思える。そして、人と神との間には一種の相互性があるようにも考えらえる。あるいは両者のあいだの役割分担とでも言えそうな関係があるようにも考えられる。
なぜなら、まず人が神の誕生の条件に叶うように魂を整え(離脱-pâtir)、その条件が整ったところで神が魂において働く(御言葉の誕生-agir)、という順序において事柄を記述できるようにも思えるからである。とすれば、離脱は、魂における神の御言葉の誕生一つの準備過程を成しているのであろうか。
そうではありえない。このような時間的順序に従った表象には、魂の離脱の経験を神がそこで働くように「強いる」経験として捉えてしまう危険がある。あるいは、少なくとも、神の働きに一定の限定を与えることになってしまう。そればかりか、このような時間的順序に従った表象は、神の根源的先行性を見損なわせる。
実のところ、すべては同じ一つの瞬間に成就する。神が魂の離脱を可能にし、この離脱において神はその御言葉を魂のうちに生む。エックハルトにおける離脱とは、この離脱(脱却)と受容との二重の経験にほかならない。
もちろん、このような経験が自らの内においてそれとして現成することを見て取ることは人にとっていつも容易なことではない。
この困難は、夙にアウグスティヌスによって強調されていたことであった。
私にとってまさにこの自分自身が、多くの困難と汗を要する畑となってしまったのです。[…]記憶するのはこの私、すなわち心としての私です。私でないものならばそれが何であるにせよ、自分から遠くはなれていてもさほど不思議ではありません。しかし、私自身にとって自分ほど近いものがありましょうか。
『告白』第十巻第十六章・二五節、山田晶訳、中央公論社『世界の名著14』、1968年、351-352頁。
実際、私たちにとってもっとも内奥にあるものがなぜかくも不透明なものとして現れるのであろうか。