内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学的遺書を読む(10)― ラヴェッソン篇(10)魂、相互浸透的なもの

2015-12-21 00:00:01 | 哲学

 ラヴェッソンにとってのプラトニズムは、ライプニッツ的であることが以下の一節を読むとわかる。それぞれのイデアの中に他のすべてのイデアが映し出されているような世界像を描き出そうとしている。ラヴェッソンは、このイデアのモデルを魂のモデルに変換することを自らの哲学のプログラムとしていたと言うこともできるだろう。いわばイデアの世界を地上に取り戻そうとする大胆な試みである。この壮大な哲学的試論は、当時の実証主義の席捲に危機感を抱き、それに対抗する哲学を構想しようという動機にも支えられていた。すべてをばらばらな諸要素に還元しようとする実証的・分析的思考に対して、ラヴェッソンは、魂が本来的に相互浸透的なものであることを示そうとする。この点において、ラヴェッソン的思考は、ベルクソンへの哲学の生成にとって決定的に重要な契機をなしている。

 Les Platoniciens représentaient les idées dont se composait un monde intelligible comme étant telles que dans chacune se voyaient toutes les autres. Sans doute il en sera ainsi des âmes : elles seront comme pénétrables les unes avec les autres, sensibles aussi les uns aux autres, tout le contraire du séparatisme de l’heure présente (p. 118).






哲学的遺書を読む(9)― ラヴェッソン篇(9)完全性から深層における全体的〈統一〉の探究へ

2015-12-20 03:38:33 | 哲学

 次の段落では、完全性が存在理由であるというボシュエのテーゼから、肉体から解放された魂の不死性が導かれるが、ラヴェッソン固有の思想が示されているわけではない。ただ、その完全性を特に愛に見ており、純化された魂は愛にほかならないというところにラヴェッソンの思想の根本的なテーゼの一つが表現されてはいる。

 La perfection est la raison d’être, a dit Bossuet. Comme on prétendait au temps d’Aristote que le bien et le beau étaient choses tardives et passagères, il disait : pourquoi Dieu dure-t-il sinon parce que son état est bonté ? Or, comme on l’a vu, la bonté, comme la beauté par excellence, c’est l’amour. Cet état c’est aussi celle de l’âme. L’âme est donc immortelle. Son association au corps est une diminution d’existence. Libérée du corps, elle n’aura donc que des raisons d’être (p. 117).

 その次の段落に見て取ることができるのは、肉体から解放された魂の天空での飛翔という、西洋精神史を古代から近世まで貫いている一つの表象を、ドイツ・ロマンティスムに見られるような反実証的・反分析的態度に連接させ、そこから、世界の諸存在をそれぞれの表層的固有性にしたがって〈分離〉して事足れりとせず、一なる実体における諸存在の相互作用による深層の全体的〈統一〉の探究へと向かう、ラヴェッソンの思想の指向性である。

 Les corps nuisibles nous appesantissent, dit Virgile ; délivrés d’eux par la mort, il est à espérer que l’âme volera d’une aile plus légère aux régions célestes. Comme le crurent les Platoniciens, comme paraît le croire aussi Leibniz, ce ne sera pas assurément sans conserver, au moyen de la partie la plus subtile de son organisation (lumière visible ou invisible et mieux encore électricité), ses relations soit de passé, soit d’avenir avec le monde physique. Mais sans doute ce ne sera plus dans un état de séparation absolue qui pose entre les différents êtres des limites infranchissables. Nous serons bien plus près d’être les uns avec les autres dans une unité profonde de substance et d’action (p. 117-118).








哲学的遺書を読む(8)― ラヴェッソン篇(8)愛の神と魂の神話

2015-12-19 05:14:24 | 哲学

 今日読む『遺書』の箇所は、一昨日の記事で引用した箇所に続けて、ベルクソンの「ラヴェッソンの生涯と業績」に、ごく一部の省略を除いて、ほぼそのまま引用されている箇所である。まず、ベルクソンが省略した語と表現([ ]内に示す)を復元した『遺書』原文そのままを掲げ、その直後に野田又夫訳「ラヴェッソンの生涯と著作」の当該箇所を、省略部分の訳を[ ]内に付加し、改行も『遺書』通りに戻して示す(仮名遣い・旧漢字は、現行のそれらに改めた)。

 On trouve [souvent] dans le pays où naquit le Christianisme [aux derniers temps de l’antiquité païenne], une fable allégorique inspirée d’une toute autre pensée, la fable de l’Amour et de Psyché ou l’âme.
 L’Amour s’éprend de Psyché. Celle-ci se rend coupable, comme l’Eve de la Bible, d’une curiosité impie de savoir, autrement que par Dieu, discerner le bien et le mal, et comme de nier ainsi la grâce divine. L’Amour lui impose des peines expiratoires, mais pour la rendre à nouveau digne de son choix, et il ne les lui impose pas sans regret. Un bas-relief le représente tenant d’une main un papillon (âme et papillon, symbole de résurrection, furent de tout temps synonymes, de l’autre main il le brûle à la flamme de son flambeau, mais il détourne la tête, comme plein de pitié (p. 116).

 [古代異教時代の最後期に]基督教が生まれた国には、それと全く異なる思想をこめた一つの寓意的神話、愛の神とプシケ即ち霊魂との神話が[しばしば]見出される。
 愛の神はプシケに恋する。プシケは、聖書のエヴァの如く、神によらずして善悪を識別してかくていはば神の恩寵を否定するところの、不信の好奇心によって、罪を獲る。愛の神は彼女に贖罪の苦痛を課する、けれどもそれは彼女を再び彼の選択に値するものとなさんが爲である。しかも彼は悲しみの心を以てそれを課するのである。ある浮彫には、愛の神は片手に蛾をもち(復活の象徴なる蛾と、霊魂とは、いつの時代でも同意義であった)、もう一方でそれを炬火の炎にかけて焼いている、けれどもあはれみに堪えぬものの如く、面をそむけているのである。(120頁)

 野田訳の一行目の「それ」は、ベルクソンによるラヴェッソンの引用では、昨日の記事で引用した段落が全部省略されているために、「基督教の精神そのものなる慈悲の精神を知らぬ一神学」、つまり「狭隘な神学」のみを指すと読めてしまうが、ラヴェッソンの『遺書』を見ると、 « une toute autre pensée »(「全く異なる思想」) は、「狭隘な神学」と全く異なるだけではなく、その次に批判の俎上に載せられた「抽象的な神学」とも全く異なると読むほうが妥当だと思われる。
 ここでラヴェッソンが提示している思想は、裁きと知性とをそれぞれ基礎とする神学的思考とは根本的に異なった、愛と憐れみの神の思想である。自らの知によって神に並ばんとして罪を獲た人間の魂を、愛と憐れみの神は見捨てない。増長した魂に罰を課すとしても、それはその魂を救わんがためである。炬火の炎で蛾(と野田訳ではなっているが、仏語の papillon は、蝶も意味する。両者を区別する必要があるときは、前者については « de nuit »を、後者については « de jour » を付加する)を焼くときに、愛の神が顔をそむけているという表象は、罰する神が感じている痛みを表現している。
 ラヴェッソンは、キリスト教を他の宗教に対して優位に置くという前提から出発しているのではない。慈悲の精神と愛と憐れみを基調とする思想とに、それがいかなる宗教的伝統において表現されているものであっても、人間にとってより根本的な価値を見出しているのである。

 

 

 

 


哲学的遺書を読む(7)― ラヴェッソン篇(7)無限包容的思考

2015-12-18 00:09:33 | 哲学

 「狭隘な神学」の批判に続くのは、「抽象的な」神学の批判である。

 Selon d’autres, Dieu désespérant des pécheurs irréconciliables et ne pouvant cependant ordonner d’éternels supplices, vouerait ces pécheurs à l’anéantissement. Mais cette hypothèse de l’irréconciliablité est une de ces fictions que rien n’autorise qu’un esprit d’abstraction qui crée des types absolus en supprimant les différences de degrés, caractère général des réalités, et les reporte en Dieu, seul sans bornes en sa miséricorde (p. 116).

 この神学によると、如何とも度し難い罪人たちに絶望した神は、そうかといって、それら罪人たちに対して永遠の責め苦を命ずるわけにもいかず、やむなく彼らを抹消するほかはないであろう、ということになる。しかし、この罪人との和解不可能性という仮説は、抽象的な思考によって生み出された虚構の一つに過ぎない。このような抽象的思考は、諸々の現実の一般的な性格である「程度の違い」(« différences de degrés »)を削除して、あれこれの絶対的なタイプを作り出して、それらのタイプすべてを、唯一慈悲において限りなき一なる神に帰してしまう。つまり、程度の差こそあれ、すべての人間の魂に分有されているあらゆる価値を、人間から取り上げ、神の属性として回収してしまう。
 この一節から読み取ることができるラヴェッソンの思想の一般的傾向性は、存在の多様性すべてをその広がりのままに包み込んで考えようとする無限の包容性である。この傾向性は、ラヴェッソンの生涯を通じて、一方では、異なった種々の諸現象への飽くなき興味と細心の注意として表現され、他方では、それらの諸現象を階層づけつつ包括的に把握しようとする息の長い総合的思考として展開される。それは、『習慣論』(1838年)から『哲学的遺書』(1901年)まで一貫している。
 このラヴェッソンの思想の傾向性について、特に『遺書』の特徴について、的確に要約している Claire Marinによる『遺書』の序文の一節を引く。

Le Testament philosophique en particulier embrasse tous les champs de la pensée et des religions et prétend révéler les liens secrets qui unissent les grands principes engendrés par l’âme humaine. Dans ce texte ambitieux, véritable odyssée philosophique, Ravaisson offre en une centaine de pages un parcours étourdissant de l’Antiquité à la philosophie contemporaine, en revisitant les représentations symboliques des religions, interrogeant les principes des différentes éthiques, rappelant les avancés de la biologie, s’appuyant sur des références esthétiques. Il veut faire apparaître sous des pensées a priori distinctes les signes qui les résument pour les délivrer des œillères de l’intelligence (F. Ravaisson, op. cit., p. 8).

 ラヴェッソンが『遺書』において試みていることは、人間の魂が生み出した諸々の偉大なる原理を一つに結び合わせている「秘された繋がり」(« liens secrets »)を明るみにもたらすことである。僅か百頁ほどの未完の小著の中で、ラヴェッソンは、古代から現代哲学までを目も眩むような速度で駆け抜け、諸宗教の象徴的な表象を通覧し、相異なった倫理の諸原理について問い、当時の生物学の最新知識を呼び起こし、審美的価値に思考を基づける。見たところ相異なった様々な思想の中から、それらを集約している徴を浮かび上がらせ、事象の区別と視野の固定化を事とする知性の狭隘さから、それらの思想を解放しようとしているのである。







哲学的遺書を読む(6)― ラヴェッソン篇(6)現代こそ「狭隘な神学」の時代ではないだろうか

2015-12-17 04:13:53 | 哲学

 昨日の続きを読もう。
 第一行目の動詞 « réduire » の前に置かれた人称代名詞 « la » は、前段落の主題である « l’âme humaine » (「人間の魂」)を指している。 以下の段落は、「正義の名の下に」、人間の魂をより惨めな定めへと貶めようとする「狭隘な神学」(« une théologie étroite »)とキリスト教の「慈悲の精神」(« l’esprit de miséricorde »)とは相容れないことを示す。

 On a prétendu, au nom de la justice, la réduire à une plus humble destinée.
 Tandis que le Sauveur dans l’Evengile dit : « J’ai pitié de la foule » ; tandis que l’Evengile dit encore : « Pardonnez jusqu’à sept fois, jusqu’à septante fois par jour » ; tandis que dans un office des morts de l’Eglise catholique on dit à Dieu : « Toi dont le propre est d’avoir pitié toujours et de pardonner », une théologie étroite veut qu’il désespère de la plupart des hommes et les condamne, comme incapables d’amendement, à périr pour toujours. Au nom de la justice, une théologie étrangère à l’esprit de miséricorde qui est celui même du Christianisme, abusant du nom d’éternité qui ne signifie souvent qu’une longue durée, condamne à des maux sans fin les pécheurs morts sans repentir, c’est-à-dire l’humanité presque entière. Comment comprendre alors ce que deviendrait la félicité d’un Dieu qui entendrait pendant l’éternité tant de voix gémissantes ? (p. 115-116)

 新約聖書の中でも、カトリックのミサにおいても、衆生への慈悲と許しは繰り返し唱えられているのに、「狭隘な神学」は、「正義の名において」という、反駁を許さぬ錦の御旗を振りかざし、悔い改めることなく死んだ罪人たちに、つまり人類のほとんどすべてに対して、終わりなき災いの刑を宣告する。しかし、このような狭隘さは、その神学が、永遠をそれとして理解できず、それを単なる長い持続と取り違えていることを意味している。このような神学に囚われているかぎり、神は、かくも多くの呻き声をいつまでも聞き続けなければならないことになり、そのような神の浄福がどのようなものになるのか、まったく理解のしようもない。
 以下は、上掲の引用箇所を読んだ後の、私の独り言である。
 このような「狭隘な神学」(ここでいう「神学」とは、学問としてのそれではなく、キリスト教圏内のそれに限られるものでもなく、「神」の名を振りかざし、その名において「正義」を絶対化し、殺人も含め己の所業を正当化する「暴力的な」言説のすべてを指す)に対して、同じく「正義の名において」攻撃を仕掛け、力によってそれを滅ぼそうとすることは、たとえそれが「正しく」とも、寛仁およびそこから湧き出る愛の道徳にまったく反しており、それらから導き出されることがけっしてない帰結である。
 中世を「暗黒の時代」とする蒙昧な史観がようやく払拭されようとしている現代は、皮肉なことに、「狭隘な神学」同士が闘争する、中世よりもさらに「暗黒な」時代になってしまってはいないだろうか。





哲学的遺書を読む(5)― ラヴェッソン篇(5)光の系譜学

2015-12-16 04:26:56 | 哲学

 今日から、ラヴェッソンの『哲学的遺書』の最後の六頁ほどを、何回かに分けて、読んでいく。段落ごとに引用し、それに意訳とコメントとを加えていくという形式を取る。

  Inspirée de cette morale, l’âme humaine prend la conscience qu’elle n’est pas née pour périr après avoir vécu de courts instants comme en un point du monde, mais qu’elle vient de l’infini, qu’elle n’est pas, suivant un mot de Descartes, comme ces petits vases que remplissent trois gouttes d’eau, mais que rien ne lui suffit que l’infini. Rayon de la divinité, rien ne peut être sa destinée que de retourner à elle et de s’unir pour toujours à son immortalité (Félix Ravaisson, Testament philosophique, op. cit., p. 114-115).

 文頭の「この道徳」(« cette morale »)とは、寛仁の心から自ずと生まれる愛に基づいた道徳である。この引用箇所の直前に、『遺書』の第二版(1933年)では、その編者によって、ラヴェッソンの草稿が挿入されている。その草稿によれば、この道徳は、ある特定の宗教的教説に還元されるものではなく、逆に、偉大な諸宗教がこの道徳にこそ還元される。その源泉は、「普遍的な始原の啓示」(« la révélation primitive universelle »)であり、それは「心の啓示」( « [la révélation] du coeur »)にほかならない。その啓示こそが、この世にやってきたあらゆる人を照らす光となるが、その光は、とりわけ偉大なる魂を照らす。
 この道徳の息吹に動かされている人間の魂は、この世界のある一点にわずかな時間だけ生きた後に滅びるために自分が生まれて来たのではないことを自覚する。この第一文の前半は、明らかにパスカルの『パンセ』を念頭において書かれおり、後半は、見ての通り、デカルトに依拠している。人間の魂は、無限からやってきたのであり、デカルトの言葉を借りれば、三滴の水が満たす小さな花瓶のようなものではなく、無限のみがそれを満たす。神性から発する光である魂にとって、その神性へと回帰し、その不死性へと永遠に合一することがその運命にほかならない。この最後の部分が新プラトン主義の流れを汲むものであることは言うまでもなかろう。
 ラヴェッソンが『遺書』で描き出そうとしているのは、「普遍的な始原の啓示」から溢れ出る光に照らされた偉大なる魂の系譜である。そのような偉大なる魂は、古代においては、様々な神話の中の英雄たちとして形象化され、古代哲学、キリスト教、近代哲学においては、卓越せる個人において受肉されて、樹状的に広がる系譜をなす。偉大なる魂たちによって担われているこの「寛仁」( « générosité ») の系譜は、ラヴェッソンが生きる時代にまで、凅れることなき川の流れのごとくに続く。生涯の最後の二年間に書かれた『遺書』は、ラヴェッソンにとって、自らをその系譜に書き込み、その系譜を未来へと託す哲学的実践にほかならない。






哲学的遺書を読む(4)― ラヴェッソン篇(4)「迫り來る夜を憂へず」

2015-12-15 06:26:16 | 哲学

 『哲学的遺書』の中で、ラヴェッソンは、キリスト教の精神を「慈悲の精神」(« l’esprit de miséricorde »)として提示している。それは、既存のいずれかのキリスト教神学の流れを前提とし、それに基いてそう主張しているのではなく、自らの寛仁の哲学からキリスト教精神の本質をそう捉えているのである。ラヴェッソンによれば、キリスト教精神の本質は、「正義の名において」罪人を裁く「狭隘な神学」(« théologie étroite»)とは、根本的に異なったものである。
 この箇所は、ベルクソンの「ラヴェッソンの生涯と業績」にも、一部省略されながらも、かなり長く引用されている。死を直前に控えて記されたこの箇所に、ベルクソンは、ラヴェッソン哲学の到達点を見ているのである。その引用の直後のベルクソンの文章は、ラヴェッソンへのきわめて美しい頌歌となっている。明日から、ラヴェッソンの『遺書』の当該箇所を読んでいくが、その前に、今日は、真にその名に値する哲学者が同じくそうである哲学者を讃える、類稀な名文を読んでおこう。

Telles étaient les théories, et telles aussi les allégories, que M. Ravaisson notait dans les dernières pages de son Testament philosophique, peu de jours avant sa mort. C’est entre ces hautes pensées et ces gracieuses images, comme le long d’une allée bordée d’arbres superbes et de fleurs odoriférantes, qu’il chemina jusqu’au dernier moment, insoucieux de la nuit qui venait, uniquement préoccupé de bien regarder en face, au ras de l’horizon, le soleil qui laissait mieux voir sa forme dans l’adoucissement de sa lumière. Une courte maladie, qu’il négligea de soigner, l’emporta en quelques jours. Il s’éteignit, le 18 mai 1900, au milieu des siens, ayant conservé jusqu’au bout toute la lucidité de sa grande intelligence (Bergson, op. cit., p. 289-290).

 この箇所の野田又夫訳は名訳である。今日の言語感覚からすれば、いささか古色を帯びた荘重な響きの言葉の連なりが、仏語原文の格調の高さをよく伝えている。旧仮名旧漢字の岩波文庫の訳文そのままを引く。

ラヴェッソン氏が「哲學遺書」の最後の數頁に、死の數日前に記した理論、并びに寓話は、かかるものであつた。この高貴な思想とこの優雅な形像とを縫うて、いはば堂々たる樹々と香はしき花々の縁どる小路に沿うて、彼は最後の瞬間まで歩みつゞけた、迫り來る夜を憂へず、唯、地平線上、光を和げつゝその姿をくつきり示す太陽を、まのあたりに眺め入らうとのみ冀つて。彼が手當をせずに捨ておいた短い病は數日にして彼を奪ひ去つた。一九〇〇年五月十八日、家族の人にとりまかれ、最後までその偉大な知性の明澄さを少しも失はずに、彼は靜かに逝いた。(121頁)

 

 

 

 


哲学的遺書を読む(3)― ラヴェッソン篇(3)後世への遺言としての「寛仁」の哲学

2015-12-14 05:31:05 | 哲学

 ラヴェッソンの『哲学的遺書』が後世への遺言として伝えようとしているのは、一言にして言えば、« générosité » の哲学(「寛仁」の哲学、あるいは「高邁」の哲学)である。
 この « générosité » という至高の道徳的価値は、昨日の記事で最後に引用した1893年の論文 « Métaphysique et morale » の中で、最も深遠な思想家たちの省察から生まれた形而上学の実践面における理想として、すでに提示されている。

Générosité, le mot le dit, c’est noblesse. Le généreux, dit Descartes, c’est celui qui a la conscience en soi d’une volonté libre par laquelle, indépendamment des choses, il est maître de lui-même. Ajoutons : d’une volonté qui vient de plus haut que lui, et qui l’affranchit de sa propre individualité, laquelle, exclusive, serait l’égoïsme, et le porte, comme dit Pascal, au « général ». Cette volonté libre que le généreux éprouve en soi, il la reconnaît comme une pièce essentielle de leur nature chez tous ceux de son « genre », chez tous ses semblables (Ravaisson, op. cit., p. 187).

 寛仁(la générosité)とは、すなわち高貴さである。ラヴェッソンは、デカルトを念頭に置きつつ、寛仁な人(le généreux)とは、己の内に自由意志の意識を持っている人のことであり、この自由意志が、その人をして、己を取り巻く諸事象・諸事物とは独立に、己自身の主人としている人のことだと言う。そして、この自由意志について、こう付け加えている。その意志とは、その人自身よりも高いところからやってくるものであり、その高貴なる意志が、その人をして、その人固有の個別性・個体性―それだけでは、エゴイズムでしかない―から解放し、パスカルが言っているように、「普遍」(« le général »)へと至らせる。この自由意志を、寛仁な人は、己の内に感じるが、その同じ意志を、同じ「類」(« genre »)の人たちすべて、つまり同胞すべてにおいて、その本性の本質的な一部として認める。
 寛仁なる人とは、己のうちにあって己を超えた高きものである自由意志が己を越えて遍く行き渡るように生きる人のことである。そのように生きることがその人を高貴にしている。つまり、高貴さは、生れによって与えられる特権ではなく、寛仁なる人として生きることそのことなのである。

 

 

 


哲学的遺書を読む(2)― ラヴェッソン篇(2)共鳴する哲学の調べ 《 générosité 》

2015-12-13 12:06:52 | 哲学

 ベルクソンが「ラヴェッソンの生涯と業績」の中で共感を込めて『哲学的遺書』に言及している箇所に、ラヴェッソンの哲学的精神とベルクソンのそれとの美しい共鳴を聴き取ることができる。

Il disait maintenant qu’une grande philosophie était apparue dès l’aurore de la pensée humaine et s’était maintenue à travers les vicissitudes de l’histoire : la philosophe héroïque, celle des magnanimes, des forts, des généreux. Cette philosophie, avant même d’être pensée par des intelligences supérieures, avait été vécue par des cœurs d’élite. Elle fut, de tout temps, celle des âmes véritablement royales, nées pour le monde entier et non pour elles, restées fidèles à l’impulsion originaire, accordées à l’unisson de la note fondamentale de l’univers qui est une note de générosité et d’amour (Bergson, « La vie et l’œuvre de Ravaisson », dans La pensée et le mouvant, PUF, 2009, p. 286).

 「ラヴェッソンの生涯と業績」が収められた『思想と動くもの』の邦訳は、岩波文庫の河野与一訳と白水社の旧版『ベルグソン全集』第七巻の矢内原伊作訳とがある(同じく白水社の『新訳ベルクソン全集』の同書の訳は、2015年12月現在で未刊行)が、この他に、野田又夫訳ラヴェッソン『習慣論』(岩波文庫)の巻末に「ラヴェッソンの生涯と著作」というタイトルで、同じく野田又夫の訳が付録として収録されている。前者二者は未見、後者は手元にある。その野田訳を以下に引く(現用の仮名遣い・字体に改めた)。

今や彼は語る、人間の思想の発端からして一つの偉大な哲学が現れていて、歴史の変遷を通じて維持せられた、即ち英雄の哲学、大度の人、強き人、寛仁の人の哲学である。この哲学は、優れた知性によって考えられる以前すでに、選ばれた人々の心情によって生きられていた。それは、何時の時代でも、我身の為にでなく全世界の為に生れ、初めに享けた力の向かうところに飽くまで忠実に、宇宙の基本の調べ―それは寛仁と愛の調べである―に合せて心をととのえる、真に王者の心をもつ者の哲学であった。(「ラヴェッソンの生涯と著作」、『習慣論』、岩波文庫、1938年、117頁)

 訳文中の「寛仁」という言葉は、原文中の « générosité » という言葉に対応している。デカルトの『情念論』における « générosité » の場合、「高邁」と訳されることが多い。いずれにしても、この言葉だけを見ていても、それをめぐってどのようなことが問題になるのか、すぐにはよくわからないし、デカルトとラヴェッソンでは、もちろん、問題とされる事柄も異なる。ラヴェッソンの『哲学的遺書』に共鳴するベルグソンとラヴェッソンとの間にも、重点の置き方において違いがある。
 ラヴェッソンには、1893年に Revue de métaphysique et morale の創刊号に掲載された « Métaphysique et morale » という論文がある。この論文の中で、ラヴェッソンは、まさにデカルトの « générosité » に言及しながら、形而上学から導き出されるべき道徳的「義務」を次のように定義する。

Il y a un « devoir » ; mais quel est ce devoir ? La vraie métaphysique prépare la réponse. Le devoir est de ressembler à Dieu, notre modèle comme notre auteur, et si Dieu est ce qui se donne, de nous donner. La loi suprême tient alors dans un mot proposé par Descartes : générosité (« Métaphyque et morale » dans Félix Ravaisson, De l’habitude Métaphyique et morale, PUF, 1999, p. 187).

 ラヴェッソンによれば、私たちの「義務」とは、私たちの手本であり創造者である「神に似ること」、そして、神とは「自らを与えるもの」であるならば、私たちの「義務」は、「私たち自身を与えること」である。この至高の法がデカルトによって提案された « générosité » という語に込められているとラヴェッソンは言う。






哲学的遺書を読む(1)― ラヴェッソン篇(1)「英雄の哲学」

2015-12-12 19:51:29 | 哲学

 今回の連載の意図は、哲学者がその生涯の最後の日々に「哲学的な」遺書として書いた文章からその思想を見直すことにある。
 連載のサブタイトルを「ラヴェッソン篇」としたのは、続編が予定されているからで、その続編では、「東洋のルソー」と称された中江兆民を取り上げる。兆民に「哲学者」という称号を冠することは躊躇われるにしても、明治期の代表的な思想家であることには異論の余地はないであろう。
 ラヴェッソン(1813-1900)と中江兆民(1847-1901)とを同じタイトルの下に取り上げるのは、両者がともに「哲学的」と呼べるような遺書を後世に遺しているからであり、それ以上に何か両者の間に共通点を探ろうという意図はない。前者の『哲学的遺書』と後者の『続一年有半』とを見るかぎり、前者は、フランス・スピリチュアリスムの流れを汲み、後者は、唯物論的思考に基礎を置いており、哲学的には、いわば対蹠的な立場に立っており、何らかの交叉点を見出すことはおそらくできない。
 ただ、1870年にナポレオン三世によってルーヴル美術館の古代担当学芸員に任命されたラヴェッソンと、1872年1月11日から同年5月にリヨンに移動するまでの四ヶ月間パリに滞在していた兆民とが、そのちょうど一年前の1月にパリ攻囲戦に敗北し、普仏戦争における屈辱的な敗戦からまだ立ち直ってはいないフランス第三共和制下のパリの空気を一時ともに呼吸していたことは確かである。
 それはさておき、まずは、ラヴェッソンの『哲学的遺書』を読んでいこう。
 普仏戦争勃発から三十年の年月を閲して、間近に迫った死を意識しつつ、哲学的遺書として書かれたラヴェッソンの文章は、その六十二年前に書かれた『習慣論』の極度に思考が凝縮された文章とは、そのスタイルにおいて、鮮やかな対照をなしている。『哲学的遺書』(このタイトルは、ラヴェッソン自身によるものではなく、遺稿として哲学者の死の翌年1901年に発表された際に付されたものだが、生前この文章をラヴェッソン自身がそう呼んでいたとの証言から、妥当なタイトルとして諸家に承認されている)は、イメージに富んでおり、それらのイメージは、ラヴェッソンのそれまでの哲学的思考を濃縮された形で内包していると同時に、そこから新たな哲学的思考が湧き出てくる思索の源泉でもある。
 『遺書』は、こう結ばれている。

Détachement de Dieu, retour à Dieu, clôture du grand cercle cosmique, restitution de l’universel équilibre, telle est l’histoire du monde. La philosophie héroïque ne construit pas le monde avec des unités mathématiques et logiques et finalement des abstractions détachées des réalités de l’Entendement ; elle atteint, par le cœur, la vive réalité vivante, âme mouvante, esprit de feu et de lumière (Félix Ravaisson, Testament philosophique, Allia, 2008, p. 120).

神から離れ、神へと回帰し、大いなる宇宙的円環が閉じられ、普遍的な均衡が回復される。これが世界の歴史である。英雄的な哲学は、数学的・論理学的単位によって世界を構築せず、〈悟性〉の現実から切り離された諸々の抽象化の結果として世界を構成するのでもない。英雄的な哲学は、心によって、生き生きとした生ける現実に、躍動する魂に、燃えるように光り輝く精神に到達する。

 二十世紀と二十一世紀の現実世界のこれまでの災厄を知っている私たちは、十九世紀の末期に書かれたこのような文章の中に、哲学者の浮世離れした夢想以外のものを読み取ることは難しいかもしれない。しかし、もし私たちがラヴェッソンの思想の中にドイツ・ロマンティスムの残光しか見ることができないとすれば、それは、歴史的「事実」の圧倒的な厚みによって、私たちの世界を見る眼が曇らされているからなのかもしれないと、少なくとも一度は、疑ってみてもいいのではないだろうか。