旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ギリシャ料理はおいしい!~スニオン岬

2020-05-07 15:25:17 | ギリシャ
2007、2011ギリシャの旅より


アテネから車で一時間ほど。
何度か訪れたスニオン岬はいつも風がつよかった。

岬の高台に紀元前五世紀のポセイドン(海の神)神殿跡がある

紀元前480年のペルシャ侵攻の後に再建築されたもの。
元は6×13本の大理石の柱があったとされる。
歴史的なことは抜きにしても、晴れた日のスニオン岬は訪れる価値がある。

スニオン岬への途中にあるレストランが気に入って二度訪れた。

湾を見晴らす高台にある

レストラン横の細い階段を下りると小さな浜もある

ゆっくり二時間ぐらいは時間をとって、エーゲ海の波風も感じる時間がほしい

一時間でそそくさと離れるには惜しい場所と、じっくり味わいたい料理をだしてくれた。

ギリシャ料理というと、ツアーで定番なのはムサカ(茄子とミートソースのグラタンのようなもの)とスブラキ(串焼きの主に豚肉)だけれど、こられを食べてもギリシャ料理の真価は伝わらないと思う。
小松が「ギリシャでなくては食べらない美味しさ」と強く記憶しているのが
★タコのウゾー煮

ウゾーはギリシャの蒸留酒。
※これらのギリシャ料理を2011年に「トラベルコ」のページに書いたもの。今でもそのまま読んでいただきたい内容なのでリンクしておきます。


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アテネ~考古学博物館

2020-05-06 08:29:20 | ギリシャ
2002,2007,2011ギリシャの旅より
首都の国立博物館にはその国の至宝が集められている

静的な像が多いギリシャ彫刻にあって、この躍動感はずばぬけている。
紀元前二世紀のブロンズ像★跳躍する馬とそれを御する黒人少年

古代ギリシャのブロンズ彫刻は石の彫刻に比べはるかに数がすくない。
後世に溶かされて大砲やなんぞに再利用されてしまうので、海に沈んででもいないとなかなか現代まで残らないのである。これもアルテミシオン岬近くの難破船から発見された。


★ポセイドン(またはゼウス)も同じ難破船から発見された

ポセイドンだった場合手には三つ又槍、
ゼウスだったとすれば雷をもっていたのだろう。

目にはめこまれていた石は失われている


★ローマ初代皇帝アウグストゥス
これもエウボイア島(アテネの北)の海中から発見された

左手は手綱を握り、指には最高神儀官をあらわす指輪をしている。
アウグストゥスが最高神儀官に就任したのは紀元前12年なのでこのころの姿をあらわした作品と考えられている。

★アンティキティラの廃船から見つかった青年像

紀元前四世紀ごろのもので、アフロディテにリンゴを渡そうとしているパリスかと推察されている。
右手にはリンゴを持っていたということ。※トロイ戦争発端となる場面ですね
前の二作品と違い、目が失われていない。さらにリアルさにひきこまれる。欧米人の青い目を上手に再現している。


★マラトンのエフェベ(少年)は、1925年にマラトン湾から発見された

紀元前四世紀後半、競技会で優勝した姿と想定される。
研究者はプラクシテレス派のものとする。
プラクシテレスはアスリートを表現する時も筋肉むきむきの表現はせず、しなやかな美しさを基調としている。

※プラクシテレスは古代ギリシャ世界で最高の彫刻職人。
紀元前350年ごろ、「クニドスのヴィーナス」として全裸の女性像を人類史上はじめて製作して物議をかもした。
※こちらにプラクシテレスについてもう少し書きました

★リケイオンのアポロもオリジナルはプラクシテレスの作といわれている

右手を頭の上にあげた特徴的なポーズは運動した後に「やれやれ」と休憩している。
アテネのギリシャ人のアゴラから発見された。
運動をするためのギムナジウムに置かれていたと考えらている。
↑左からブロンズ、大理石、右の象牙製のものは二百もの断片から復元された

古代ギリシャのブロンズ彫刻の魅力をひしひしと感じさせてくれる
**


石の作品群も見所は多い
★キクラデス諸島の彫刻

モディリアーニそっくりじゃないですか!
いや、モディリアーニやピカソがこういう時代の彫刻に影響を受けていたのですね

★アルカイック期の御者像 紀元前550年頃

この作品、身体はホンモノだが、顔の部分はレプリカ
顏の部分のホンモノはルーブル美術館が所蔵している↓下がルーブルでの展示

どうしてこんなことになってしまったのか?

頭部は1877年にアクロポリスで発掘された。
当時の発掘は宝探しと同じようなもので、発掘者の多くが金目当てで売りに出す。
ジョルジュ・ランパンというフランス人が買い取り1896年にルーブルに寄付した。

頭の失われた身体と馬の破片群は1886年にアクロポリスの側溝で発見される。
紀元前480年にペルシャ軍がアテネを占領しパルテノン神殿を破壊した際、神殿に飾られていた騎馬像も破壊され捨てられていたのだと推察された。

これら別々の発見が同じ像だと推察されたのは半世紀以上がすぎた1936年になってから。
英国人のHumphry Payneという学者による。
このタイミングで頭部、身体それぞれのコピーが製作されてルーブル、アテネ考古学博物館それぞれの像に接着された。

しかし、この接着にも疑問が呈される。
微妙に首の長さなどに違和感がある、かも。
提示された仮説は、もともと騎馬像は二体が並列しておかれており(顔が少し斜めを向いているのがその証拠だとされる)、頭部と身体は別々の像のものだというのである。

★ミケーネの戦士が行進する壺

戦士は何を担いでいるのか?
クノッソスのフレスコ画から解明された↓

↑上のフレスコ画、右は牛柄の八の字型楯が壁にかけられている光景!
ギリシャ戦士が持っている楯は映画に出てくるような丸い金属だと思い込んでいる現代人の我々だが、
紀元前14世紀ごろのミケーネやクレタでは巨大な八の字型を使っていたというのだ。
それは牛の皮を表面に張った木製で、真ん中で折って肩の前後にかけて持ち運んでいたという。
クノッソス宮殿を発掘したエヴァンスの説得力ある仮説。

★サントリーニ島のフレスコ画

↑左側が有名なボクシングをする少年の図
アテネの考古学博物館のフレスコ画セクションは長く締まっていたが、何度も訪れていた時期に一二度だけ見学することができた。

アテネ考古学博物館で有名なものはミケーネの黄金の品



一度行けば満足というのではまったくなく、
行けばいくほど、また行きたくなる場所です(^^)












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アテネ~ゼウス神殿、古代オリンピックスタジアム、

2020-05-05 09:57:24 | ギリシャ
2002、2007、2011ギリシャの旅より
パルテノン神殿と手前ゼウス神殿の夜景が見えるホテルを選んだ。

アテネ最大の神殿はパルテノンではなく最高神ゼウスの神殿である。

107m×41m、もとは84本(現地ガイドさんは104本と解説)の柱があった。
※パルテノン神殿は70×30m
建設をはじめたのは紀元前6世紀ごろだが、完成したのはローマ皇帝ハドリアヌス時代の紀元後132年。
↓このゲートはそのころのもの↓

街のど真ん中によくぞこれだけの神殿を発掘・保存してあるものだ。
さぞかしローマのように住民移動をたくさんやったのだろうと思っていたら、
1868年ごろの古い写真を見つけた。ゼウス神殿とハドリアヌス帝の門がみえる↓

え?こんなに何もない場所だったんだ。
1830年に悲願の独立を達成したギリシャだが、その頃のアテネは廃墟の中に人がまばらに住む「村」だった。
廃墟を転じて民族の誇りにするには発掘・修復が必要。
自分たちの誇るべき歴史が目に見えるかたちで存在することは重要。

ギリシャにとって誇るべきものの第一はオリンピック。

このスタジアムは1896年の第一回近代オリンピックの会場であった場所だが

紀元前566年から八百年も続けられた古代パンアテナイ祭(アテネ版オリンピックですね)の場所に再建されている。

19世紀の独立国ギリシャは最初は共和制を目指していたが、「やっぱり王様が必要だね」ということになり南ドイツのバイエルンから王を迎えた。
ノイシュバンシュタイン城を建設するルードヴィッヒ二世のおじさんにあたるオットー。ギリシャでオソン一世国王となった。
↓その王宮として建設されたのがこれ

衛兵が護っているのは無名戦士の墓

独特の民族衣装と動きが人気で観光スポットとなっている。
今は国会議事堂となっているが、国のために犠牲となった戦士に敬意を表する場は変わらない。


大学、図書館もこの時期に、古代ギリシャの様式で建てられた↓

古代ギリシャの先人を画いてある


日本では文化や伝統が身近に、特に意識されることもなくあたりまえに存在している。
21世紀になってもそれは変わらない。
千九百年も国を持たず他国・多民族に支配されてきたギリシャ人にとって、こういった場所はただの遺跡や建物ではない。









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アテネ~アゴラとアゴラ博物館、風の塔

2020-05-03 15:56:27 | ギリシャ
2002,2007,2011年ギリシャの旅より
アクロポリスの丘から見下ろすふもとに古代アテネの中心=アゴラが見える

紀元前五世紀ごろから紀元後四世紀ごろまでアテネの中心だった場所。
↑神殿はテセイオン(神話の英雄テセウスの活躍のレリーフで飾られていた)と呼ばれ、パルテノン神殿と同じ紀元前五世紀の建造。
↓少し高台から人々の集まる公共広場=アゴラを見下ろす位置にある。

全ギリシャの中でも原型をよく留めたものとして知られている↓
なぜ、よく残っているのか?
↓それはキリスト教の時代にずっと教会として使い続けられたから

トルコ支配時代にもキリスト教信仰は容認されていた。
1834年に教会としての役割を終え、アテネ考古学博物館の最初の収蔵庫=展示室として使用されていた。

テセイオンの見守る旧アゴラの中心部は、
列柱の立ち並ぶ「ストア」が囲っていた↓そのひとつ「アッタロスのストア」が復元されて博物館となっている↓

↓別の方向から見たところ。アクロポリスのふもとにこんな柱廊建築がたくさん集まっていたのか。

この建物は1950年代のものだが、基本構造は紀元前2世紀にペルガモンのアッタロス二世王が奉納建造したものを再現している。

「ストア」というギリシャ語が英語のSTOREになった。
ここは一般の人が買い物に訪れる店があり、当時から絵画や彫刻が飾られた場所だったのである。
復元されたイオニア式円柱↓

↓発掘された古代のものがすぐそばに置かれているので「ああ、もとはこれがあったのだ」とすぐ理解できる

展示室への扉は新しい木製だがまわりの石材は古代のオリジナル

↓この敷石を古代の人々も踏んでいたはず

★展示品
考古学博物館にある黄金製品などはないが、ストーリーを知るとがぜん興味が湧く品々が展示されている
↓これはなんでしょう?

☆現在ブリュッセルの博物館が所蔵する赤絵のツボに描かれた絵から↓こんなふうに使われていた品だと判明した

↓ふつうのツボに見えるが二重になっていて中にワインを、外に水を入れて気化熱を利用してワインを冷やしていたのだそうな↓



●オストラコン(=陶片)は、紀元前六世紀末にテミストクレスが導入したとされるオストラキスモス(=陶片追放)という制度に使われた。

民衆が選んだ代表といえども僭主になってゆく可能性がある。
市民会がひらかれた後、市民が「選手になるおそれがある」と思った人物の名前を陶片に書いて無記名投票する。

※オストラキスモスとテミストクレスについてもう少しこちらに書きました

●クレロテリアとは何?

解説を読んでみると、これは抽選機・・・あ!LOTのもとになったものということか。
といっても、宝くじではなく裁判の陪審員や審議員を決めるために使われていた。

使用方法が完全に解明されてはいないが、たくさん開けられた横長の穴には名前を書いた札(ピナキア)を差し込んでおく↓

↑実物がとなりに展示してある。
装置の右下にある穴からは白か黒かの球が出て、何列目の何番が当たりと決まる(このあたりの仕組みは解説されてもよくわかりませんでした)。 古代アテネにも部族・派閥があって、ひとつの行にはそれぞれの部族と決まっている。行ごとに選ばれる人数を限定することで陪審員や代議員が偏ることを防いでいた。
無作為に抽出するだけでは公平性は保てない。
現代のアメリカ陪審員制度においても偏りがみられる人を避ける方策はとられている。
日本の陪審員制度はどうなのだろう?

アゴラを囲んでいたストアのうち、復元されているのはアッタロスのストアだけ。
↓ストア派哲学の語源となった建物は柱の基礎しかのこされていない

ここでゼノンが「ストイックな」講義をしていたのかしらん。
**
ローマの支配下になり、より人が増えたアゴラは東方向に拡張された。
現在のアテネ旧市街にあたるプラア地区との間にあたる。
紀元前一世紀カエサルの時代にローマ人のアゴラに八角形の建物がつくられた↓

何がここにあったのだろう?

解説によれば、水時計が入っていた。
アクロポリスの丘北面からは「クレプシドラの泉」が湧き出ていて、それをアゴラにみちびいていてここにあった水時計に使っていた。
扉はいつもあけられていたのだそうだ。つまり、街の大時計ですな。

アテネは何度も観光したが、《手造の旅》でじっくり観光した一度だけ「クレプシドラの泉」に連れて行ってくれたガイドさんがあった
↓「さぁ入って入って」

いつもは通れないルートでパルテノン神殿の前門真下にやってきた↓
↓上に「アグリッパの台座」が見える

崖の下からたしかに泉が湧き出ている

二千五百年前のアテネの人々に利用されていた水源

ここからの水を利用してつくられた水時計が「クレプシュドラ」と呼ばれていた意味がわかった。

↓これはアゴラ博物館に展示されていた水時計。「風の塔」にあったかどうかはわからないが。

甕が何段にも置かれていて、いっぱいになると上部にあけられた穴からしたの甕に水が落ちてゆく仕組み。
たとえば、一段目の甕がいっぱいになるまでを一時間とする、とか。
古代の裁判で発言者の時間を公正に制限するためにこういった水時計が使われていたのだそうだ。

八角形の建物が「風の塔」と呼ばれているのは、八面それぞれにその方向から吹く風の神様が刻まれているから

このデザインはその後のヨーロッパ建築に何度も模倣されている名デザインだ。

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アテネ~アクロポリスのパルテノン神殿

2020-05-01 08:23:04 | ギリシャ
2011年ギリシャ《手造の旅》より

「このパルテノン神殿は直線で出来てはいないのよ」

「??」地元のガイドさんに説明されても、どういうことか理解できなかった。
神殿の角に連れてこられて「ここから見てごらん」と神殿の基部分を見せられた↓

あ!弓なりに盛り上がった曲線になっている!
「柱は少し膨らませてあるし(法隆寺と同じ「エンタシス」ですね)、内側に傾けて立ててあるの」

どこも真っ直ぐじゃなかったんだ!
「柱と柱の間隔も均等ではないし」

↑角に近い柱の間隔はあきらかに狭い。
紀元前5世紀後半に完成したこの神殿は、それ以前何百年にもわたって作り続けてきた神殿建築の経験を結集している。
柱を等間隔にするよりも、このほうがキュッと引き締まって見えるという効果があると、いくつも神殿をつくっていくうちに学んでいたのである。
フィーディアスやイクティノスといった名前が知られている建築家だけの成果ではない。

こういう事実はしっかり解説されてはじめて理解できる。


紀元前五世紀の丘の上の様子が復元してあった↓

↑少し下のところにあるのが「プロナオス」(=前門)
ペルシャによってBC480年に破壊された後に再建された時にその勝利を祝って巨大な勝利の女神ニケの像がおかれていた。

↓前門へ向かう階段は急でつるつるですべりやすい。

巨大なドーリア式の柱の下を、昔も今も人々が登ってゆく。


前門のすぐ前に残されている「アグリッパの台座」は↓神殿の完成から二百五十年ほど後に付け加えられたもの↓

もともとBC178年のパンアテナイ祭の馬車競技でペルガモンのエウメネス二世王が優勝した記念の銅像が上にあった。紀元前一世紀に初代ローマ皇帝アウグストゥスの片腕にして義理の息子となったアグリッパがアテネのオデオンを再建したのに敬意を表してアテネ市が彼の像を置いていた。今は失われて台座だけになっているのだ。

復元された門をくぐる


大神殿の正面向かって左にあるエレクティオン神殿は美しさではパルテノンに勝る

「カリアティード」と呼ばれる人型をした柱が有名

ここにあるのはレプリカで新アクロポリスの博物館に本物が収蔵されているが、一本だけはエルギン鄕がイギリスに運んでしまい、今は大英博物館が所蔵し↓こんな風に展示されている↓

屋内で間近に見ると、彫刻として驚嘆すべき完成度があるのがわかる

だが、もともとこんな↓環境にあったことを理解するのは難しい↓

エルギン鄕が駐在していた頃★トルコ統治下19世紀はじめごろのスケッチ画をガイドさんが見せてくれた↓

廃墟の神殿のあるアクロポリスいっぱいに家が立ち並んでいた!
**
大英博物館にあるパルテノン神殿のレリーフ彫刻の返還を、ギリシャ政府はずっと言い続けている。
アテネに滞在していたイギリス外交官エルギン鄕が、当時の統治者であったオスマン・トルコ政府より許可を得て1801-12にかけてロンドンへ移送した。現在このように展示されている↓

これらは当時残されていたレリーフの半分にもなる。爆薬までつかって神殿から引きはがしたものも少なくない。
文化財破壊だというのはもっともだ。

しかし、1821-29のギリシャ独立戦争ではアクロポリスに立て籠もるトルコ軍との間ではげしい戦闘が続き、残されていた建物やレリーフはもっと大きな破壊にさらされてしまったのである。ロンドンへ逃れたレリーフは幸運だった?

↓「返還されたらここに置きます」として、ギリシャ政府が新しく建設したアクロポリス美術館がオデオンの前にみえる↓



↑この長方形はパルテノン神殿と全く同じにつくられていて、完璧に同じ配置で見ることができるようになっている↓これが内部

ロビーの大きなガラス窓からアクロポリス上の神殿がよく見える



↑テラスからもっとよくみえる。

1980年代のおわりごろ、ロンドンではじめて「エルギン・マーブル」を見た小松は、いくら上手に解説されても「それがいったいなんなのか・どこにどんな風に存在していたのか」を、まったくイメージすることができなかった。
もし、これらがアテネにあって目の前に廃墟であってもパルテノン神殿がそびえていて、「あそこにあったものです」と指差してもらえば、きっとすぐに理解できていただろう。

メリナ・メルクーリ文化大臣(「日曜日はだめよ」で有名な元女優)は、「パルテノン神殿のレリーフはアッティカ(アテネのある地方)の蒼い空の下にあるべきなのです」と声明を発していた。
その日は、くるのだろうか。
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