旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

インドの格差社会、中国との違い

2020-05-13 21:56:37 | インド
2005年《手造の旅》インドより
アグラのホテルで結婚式に遭遇した

新郎はなんと

白馬に乗って登場した

とにかく賑やか!
結婚式をとことん派手にすることがインドの上層社会では重要なのだ

見ず知らずの外国人の我々だってどんどん招き入れられる。
↓ここは新婦がわの席なのだが…

「お嫁さんがずっと悲しそうな顏しているのよ」
言われてみると、たしかに。
賑やかさこれ以上ないというほどの宴のなかで、その事情は知る由もない。
マドリッドで見たゴヤの「村の結婚式」を思い出した。

**翌朝、我々の出発とおなじころに彼らも出発の様子

新郎新婦の車?いや、パレードに伴奏する車かしらん

ホテルを一歩出るとインド大都市の苛烈な現実がいやでも目にはいってくる

↓これはジャイプールの朝

近くの農村からミルクを売りにきている↑

自分で町をあるくことは必用。
こちらから一歩近づいていけば、言葉はあまり通じなくても理解できることがある。
ツアーで観光地だけをめぐっていては見えてこないインドがたくさんある。

ジャイプールからアグラへの途中の村でストップした時、村の子供たちがやってきた。
大きな瞳で外国人に興味深々。
都市を離れて出会う人々は、観光地でまとわりついてくる物売りとはぜんぜん違う。

制服を着ているから(インドはイギリス支配だったので小学校ぐらいでも制服のある学校が多い)
いわば「一般的な」家庭の子供たちなのだろう。

デリーの渋滞のなかを歩く象

この少年のお父さんも象使いなのだろうな。

インドの貧富の格差は中国のものとは全く違う。
国が発展する事で解消されていかない貧しさだと感じる。

兄が叩く太鼓にあわせて曲芸を見せるこの子はいったいいくつなのだろう。

***
インドでは、
大都市の高層ビルの間で羊を放牧している。
道路の中央分離帯で煮炊きして生活する人がいる↓

はじめて訪れた頃、おどろいて「あれは何ですか?」と指差して訊ねたが、ガイドさんが答えたのはその方向にあったビルの名前だった。
その時にはっきりわかった。
外国人のガイドをやっている階層の人には、地べたを這うように生活している人々が見えていない。
華やかなインド映画で映る街には前述のような人々の姿はない。
透明人間のようにかき消されている。
上層階級の人々にとって彼らはまったく別世界の住人なのだ。

固定された貧困。
それはカーストと深くつながっているのだろう。
インド人なら姓をきいただけで相手の「身分」がわかるという。
日本人にもかつて身分制度と姓につながりがあった時代があったが、現在では姓が固定された貧富のレッテルではない。

貧富が教育の機会を決定する社会。
そこで固定した貧困層が再生産される。

かつての中国は貧しくとも最低限の教育はうけられる社会だった。
それを理想に掲げた国家だった。
だからこの二十年で人件費が飛躍的に上昇し、結果、工場がもっと人件費の安い国に移転していくという皮肉な事態にもなった。
一方、この二十年のインドはどうだったのか。
この先二十年のインドはどうなっていくのだろうか。

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アグラ城

2020-05-12 19:51:52 | インド
2005年《手造の旅》インドより
タージ・マハルからヤムナー川沿いを一キロほど行ったところにかつての王城がある。

デリーの城と同じく真っ赤な石なので同じくレッド・フォートと呼ばれることもある。

当時の入場料は外国人が5US$、インド人は20ルピー(当時は1ルピーが3円弱だった)。
約二十倍か。こういう入場料で国の発展レベルが測れるように思う。
※調べてみると十五年後の2020年現在は約十倍に「縮まって」いた。これはインドが発展したということなのかしらん?

アグラは古代からの要衝でいくつもの王朝がこの地を首都としてきた。
だが、ムガール帝国としては第三代のアクバルが16世紀にこのアグラ城の建設をはじめ、タージマハルを建設した孫のシャー・ジャハンの息子アウラングゼーブが旧都デリーに戻すまで約百年間だけの首都である。

ヨーロッパの城と違って高い建物よりも広い庭の方が印象的

居住空間として快適にしようとしている。

↑中庭に置かれていた巨大な石は何?
ふちのところに文字が刻まれた楕円形が見える。
そこにはペルシャ語でJAHANGIR's HAUZ【ジャハンギル帝のバスタブ】1610(西暦に換算)と刻まれていた。
ジャハンギル帝はアグラを帝国の首都にして城の建設をはじめたアクバル帝の息子。
高さ1.5m、直径2.4mのバスタブだったのか。
↑そういえば浴槽内に入る時に使う階段が側面に削りだされているのが見える↑
バスタブなら宮殿の中の浴場に作ればよいと思うけれど、これはジャハンギルが遠征する時に使っていたモノ。
こんなものを持って戦争にさえ行っていたらしい。
※1843に再発見され、デリー城(レッド・フォート)に1862まで置かれていたものを、イギリス人考古学者のジョン・マーシャル(モヘンジョダロの発掘などで有名)が、もともとあっただろうこのアグラ城にもどしたと解説版に書かれていた。


ムガール帝がイギリスの影響をうけはじめる以前の建築は西洋建築にはない美しさをもっている

イスラム教徒なので人物の表現はみられないが、幾何学的なデザインは現代の目で見ても古くなっていない。

↓こういう壁の飾り棚にはどんなモノが置かれていたのだろう。
今はイギリスのどこかにあったりするのかしらん。


ヤムナー川を見晴らす場所にテラスがある

★タージマハルを建設したシャージャハン帝が息子アウラングゼーブに幽閉された場所。

ムムターズ妃はシャージャハン帝との間に十四人の子供たちをもったが三十六歳のお産の後に没した。
四人いた息子たちの殺し合いを見ずにすんだことは幸いだったかもしれない。

兄弟の殺し合いは三男のアウラングゼーブが制し、「自分を愛してくれなかった」父をここに幽閉した。
父のお気に入りだった兄を処刑し、その首を送りつけた。
豪華な品々を没収し、生活を困窮させ、七年もの間いじめ続けた。

建物が美しく装飾されているゆえにその悲哀は深くなる。
↑この部分には象嵌された貴石が盗まれずに残っていた
テラスから妃ムムターズ(アウラングゼーブの母)の廟タージマハルが見える。
シャージャハンは対岸に自身のための黒いタージマハルを建設するつもりだったが幻となった。

第六代皇帝となったアウラングゼーブはデリーに遷都してアグラを去る。
妹たちの嘆願によって、父の死の直前に和解の手紙を送ったとされている。
※アウラングゼーブの肖像画をページの最後にのせました

アグラ城は19世紀に砲撃をうけた跡ものこされている↓

通称「セポイの乱」の際、副総督だったジョン・ラッセル鄕は陥落の直前にコレラで死去。
伝染病の遺体を故国に移送することはできず、この中庭に墓がある↓



**
「タージマハルがきれいにみえるカフェがあるのです」
とガイドさんが勧めてくれたので、人力車に分乗した

あ、こんな場所もあるのですね

***
アグラのホテルに行く途中、「タージ・マハル」という映画のポスターを見かけた↓

前述のシャージャハン帝とその息子たちの話を知っていれば、物語は想像がつく。
↑いちばん左が父のシャージャハン。
真ん中の特徴的な冠をかぶって顎髭まで生やしているのが三男のアウラングゼーブに違いない。
(ネット辞典Wikiから引用)後世に伝わる彼のポートレート絵画↓

どの国にも時代劇ドラマがあり、そこには外国人には説明しにくいややこしい物語がある。
ちょうど今年2020年の大河ドラマに登場する斉藤道三とその息子高政の話のように。


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タージマハルとその象嵌装飾

2020-05-11 23:04:48 | インド
2005年《手造の旅》インドより
★予定していたネパールの旅が現地の政治事情で突然中止となり、急遽(一週間前だったと記憶します)インドのVISAを申請して催行。参加予定だった皆さんのほとんどがネパール→インドへの変更を受け入れてくださり催行できた。デリー、アグラ、ジャイプール、定番三都市の旅。
王妃ムムターズ・マハルの為の墓所として1636年(日本では徳川家光の時代)にはほぼ完成していた。

高さ58mのドームはパリの凱旋門より少し大きい程度。だが、四本の塔が周囲にあるおかげで実際よりもずっと大きな印象を与える。
塔はドームが「頭でっかち」な印象になるのを防いでもいる。
※モデルとなったフマユーン廟のほうがドームだけを見るとバランスがよいが、塔を含めた「絵」は比類ない。彼女の息子の妃(つまり嫁)も、アウランガバードにあるおなじスタイルの廟に眠っているが。
南側の門をくぐった時、暗い額縁の中に陶然と現れる白亜の大理石建築

吸い寄せられるように近づき、台座のすぐ下までやってきた

近くで見上げても丸いドームが見えるように大きめにつくってあったのか

一辺約三百メートルの台座にのぼり振り返ると入ってきた門↓

台座の東側に↓フマユーン廟とよく似た赤砂岩のモスク↓

インドはヒンズー教徒が多数派だがムガール帝国皇帝たちはペルシャとの繋がりが強いイスラム教なのだ。
↓この塔も時々ミナレットと形容されることがあるが

そのように使われてきたわけではない。


タージマハルのスケールの大きさにもおどろかされるが、細部装飾もよくみておきたい

コーラン文字の装飾と品良い赤色が効いた植物装飾は画いたものではない

大理石に宝石を隙間なく象嵌している

門を出て、その象嵌装飾を受け継いでいる店を見学した↓

細かい溝にぴったり合うように貴石を加工している

それらを隙間なくはめこんで研磨すると

こんな作品になってゆく

すべてにおおざっぱなイメージの現代インドで、こんな緻密な細工が受け継がれていることにおどろかされた。
大きなテーブルはとても買えないけれど、記念の一品↓購入しました(^.^)



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フマユーン廟

2020-05-10 20:34:52 | インド
2005年《手造の旅》インドより
★予定していたネパールの旅が現地の政治事情で突然中止となり、急遽(一週間前だったと記憶します)インドのVISAを申請して催行。参加予定だった皆さんのほとんどがネパール→インドへの変更を受け入れてくださり催行できた。デリー、アグラ、ジャイプール、定番三都市の旅。

タージ・マハルのモデルとなった廟である

ムガール帝国はもともとペルシャ語で「モンゴル」を発音した音からきている。
チンギス・ハーンの大帝国が分裂した後、現ウズベキスタンあたりを支配したチムールの子孫である初代バーブルが建国した。
その息子、第二代フマユーン帝は治世の途中で北インド支配を失ったが、妻の実家であるペルシャの助けを借りて1555年にデリーに戻り首都とした。
翌1556年に没した夫の墓を、ペルシャ系の妻ハミーダ・バーヌ・ベーグムが1565-72にかけて建設した。
彼女の息子が大帝と呼ばれるようになるアクバル。
ハミーダは皇帝の母・後宮の支配者として息子の死の前年1604年まで権勢をふるっていた。

砦のようにつくられた中心部へ至る急な階段

インドではじめてのペルシャ風の建築。
砂岩と大理石を上手に組み合わせたデザイン。

四つの区画に分けられたペルシャ風の広大な庭園が付属している。

高い天井のドームの下にフマユーン帝の棺がある。
遺体はこの中にはなく、その下の地中に埋葬されている。

妻や子供たちの墓、縁者あわせて百人以上の墓があった。
資料によると、これらの墓碑はかつて、ペルシャ風のタイル装飾がされていたのだそうだ。

フマユーン廟はムガール帝国滅亡の舞台にもなっている。
1857年、通称「セポイの乱」が発生し、最後のムガール皇帝バハドゥール・シャーは不本意ながらその盟主に担がれた。
デリーは一時反乱軍が支配したが英国軍が包囲。
老帝は、1857年9月にデリーの王宮を脱出してこの祖先の廟に隠れた。
9月20日、イギリス軍はまさにフマユーンの墓の前で最後の皇帝バハドゥール・シャーを捕えた。
彼自身は殺されずにミャンマーに幽閉されることになったが、二人の息子と孫はデリー陥落の折に処刑されている。

イギリス軍の略奪は建物を飾っていたすべての装飾に及んだ

今はがらんとした感じだが、色鮮やかに飾られていたにちがいない。
それは、約六十年後に建設されたタージ・マハルをみれば想像できる。
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マラトン

2020-05-09 08:26:20 | ギリシャ
2007年ギリシャの旅より
2004年ギリシャオリンピック、女子マラソン当日朝、野口みずき選手は「この塚にむかって祈った」と話していた。※朝日新聞のページの頁にリンクします
紀元前490年のマラトンの戦いの遺構は塚だけしか残されていない。
アテネ人戦没者を祀っていると言い伝えられてきた。
1884年に発掘調査が行われ火葬の際のものと思われる灰の層が見つかった。
地形模型が戦闘の様子を分かりやすくしてくれている。

マラトン湾に上陸したペルシャ軍は一万から二万。(※ヘロドトスは十万と書いているが)
遅れて到着したアテネ軍九千+プラタイア軍七百~一千が海を右に対峙する。

マラトンはアテネまで四十キロほど。
ここを破られるわけにはいかない。
一週間のにらみ合いの後、夏の一日の激戦でギリシャ側が完勝。
ヘロドトスによるとペルシャ側の戦死六千四百に対しアテネの犠牲は百九十二名。
現代の推察によるとペルシャ側の戦死五千から六千、アテネ側一千。
ギリシャ連合は辛くも勝利したが、船で退却したペルシャ軍が別動隊と共にアテネを襲うのを危惧して伝令を走らせた。
この話がマラソンの起源となっている。

戦没者は都市毎に埋葬された。
唯一共闘したプラタイア軍戦没者の塚はずっと小さく、アテネ軍の塚から1.5㎞ほど離れたところで見つかった。
1970年に発掘され、完全な五体の若い男性の人骨が丁寧に埋葬されたかたちで出土。
※1970年当時のニューヨークタイムズの記事にとびます
ギリシャの考古学者たちはペルシャ人戦没者の塚もあったはずだと探している。
**
現代の観光客がマラトンで見るべきはこの塚の他には主に二ヶ所。

↑上の地図で「you are here」となっているところが博物館。
真ん中の緑色が冒頭の塚。
博物館近くにマラトンの街に付属していた墓地が見つかっている↓

全体に屋根がかけられて見学しやすいように上に歩道がもうけてある

ここは紀元前二十世紀ごろのキクラデス文明の品から紀元後までの長きにわたる出土品が見つかっている。
↑上の地図でいちばん下の方に位置する緑色の場所に「エジプトの神の聖域」があった。
古代エジプトの神々はこのころまだまだ「現役」で、地中海を超えて行き来するエジプトの商人のコミュニティのためにこういったものが必要だったと考えられている。現代の中華街に関帝廟があったりするのと同じですね。
↓エジプトの神がギリシャでどんな神像になっていたかをおしえてくれる像が博物館に展示されていた↓

イシス神とされている。
直立して左足を前にだす姿勢、頭にイシス神のシンボルを乗せている姿。
たしかにエジプトの神なのだが彫刻としては見事なギリシャ風。
紀元前五世紀ごろの地中海の南北の交流がひと目でわかる展示物であった。


遺跡サイトへの入口でチケット切をしていた二人



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