女流作家、
という言い方を、
今でもするのかどうか判りませんけれど、
川上弘美は、その女性性をたくさん分泌して、
素晴らしい小説を書いています。
「真鶴」。
つつ、と読みながら、
僕は中原昌也のことを考えていました。
たぶん、川上弘美ならば、
中原昌也の小説を、
言葉として面白がるのではないだろうか、
と思いながら、読んでいました。
両者とも、抜群の言葉の人たちです。
「真鶴」は2回目の読みです。
以前読んだ時、とてもおもしろかったので、
今回も。
先回、読み過ごしてしまった箇所を発見。
舞台は、真鶴、ですけれど、
そこに、与謝野晶子の記念碑があるシーンが出てきます。
ここらあたりから、僕の中で、
女性作家ではなく、女流作家、
という言葉がのぼってきていました。
与謝野晶子へのオマージュではないか、この小説は、
と思いました。
「ついてくる」という姿、形がないモノが、
実は与謝野晶子のことではないか、
と想像しました。
実に、幽玄な小説です。日本的というか。
思い出した小説で、
多和田葉子の作品で、
やはり、一緒に姿、形がないモノと歩行してゆく、
そんな小説がありました。
それは実名の外国の女性作家で、
多和田葉子はこの作家と一緒に歩きたかったのだろう、
思いが、よく判る作品でしたけれど、
題名が思い出せません。
多和田の方は、舞台が確か、ドイツで、
湿度はあまり感じませんでしたけれど、
「真鶴」は、ひどく湿っています。
抜群なのは、「、」の打ち方と、
ひらがなの使用。
まったくもって、才能のある作家の本は、
読む者にとっては、至福です。
今日は、いろんなことが不思議なほどに、
はかどりました。淀みなく、無駄なく。
こんな能率の良い日もあるのだな、と思います。
カボチャを煮て、
なすを煮て、
スーパーで小さなホタルイカがたったの100円で最近、
売っているので、
ありがたがって、
里芋と人参とで煮物を作りました。
温かくなって、
ホットカーペットをはがし、
ベランダに干しました。
という言い方を、
今でもするのかどうか判りませんけれど、
川上弘美は、その女性性をたくさん分泌して、
素晴らしい小説を書いています。
「真鶴」。
つつ、と読みながら、
僕は中原昌也のことを考えていました。
たぶん、川上弘美ならば、
中原昌也の小説を、
言葉として面白がるのではないだろうか、
と思いながら、読んでいました。
両者とも、抜群の言葉の人たちです。
「真鶴」は2回目の読みです。
以前読んだ時、とてもおもしろかったので、
今回も。
先回、読み過ごしてしまった箇所を発見。
舞台は、真鶴、ですけれど、
そこに、与謝野晶子の記念碑があるシーンが出てきます。
ここらあたりから、僕の中で、
女性作家ではなく、女流作家、
という言葉がのぼってきていました。
与謝野晶子へのオマージュではないか、この小説は、
と思いました。
「ついてくる」という姿、形がないモノが、
実は与謝野晶子のことではないか、
と想像しました。
実に、幽玄な小説です。日本的というか。
思い出した小説で、
多和田葉子の作品で、
やはり、一緒に姿、形がないモノと歩行してゆく、
そんな小説がありました。
それは実名の外国の女性作家で、
多和田葉子はこの作家と一緒に歩きたかったのだろう、
思いが、よく判る作品でしたけれど、
題名が思い出せません。
多和田の方は、舞台が確か、ドイツで、
湿度はあまり感じませんでしたけれど、
「真鶴」は、ひどく湿っています。
抜群なのは、「、」の打ち方と、
ひらがなの使用。
まったくもって、才能のある作家の本は、
読む者にとっては、至福です。
今日は、いろんなことが不思議なほどに、
はかどりました。淀みなく、無駄なく。
こんな能率の良い日もあるのだな、と思います。
カボチャを煮て、
なすを煮て、
スーパーで小さなホタルイカがたったの100円で最近、
売っているので、
ありがたがって、
里芋と人参とで煮物を作りました。
温かくなって、
ホットカーペットをはがし、
ベランダに干しました。