kotoba日記                     小久保圭介

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こけるのも悪くない

2017年06月02日 | 生活
労働帰り
浄心のスーパーで
食材を買い
自転車のハンドルに
レジ袋をぶら下げ
信号待ちをしていた

信号が青に変わり
なんだろう
一瞬何が起きたのか
わたし
自転車ごと
左に傾き
転んだ

恥ずかしさと
驚きで
あたふたしていると同時に
若い娘さん3人が
冷静に
自転車を立てることを手助けしてくれて
横断歩道に散らばった
食パン
3つ入りのトマト
黒糖菓子
ほうれん草
牛乳パックを
拾って
わたしの
前かごに
ひとつずつ
収めてくれていた
「ケータイが」
と転がっていた
青いガラケーを
拾ってくれた

お礼をちゃんと言えないほどに
動揺し
恥ずかしさと
驚きで
左側の痛みを
少し感じながら
次の信号を待っていた

六つの手が
目前で
動いていた
ありがとうという気持ちは
もちろんあるのだけれど
言葉にできていない

わたし
介護されているのか
子供なのか
どっちかだ
いずれにしても
見て見ぬふりができぬほど
派手に転んで
自身では何もできない
そんな茫然表情を
していたのかもしれない


あんなふうに
派手に転んだのは
久しぶり
いやはや

翌朝
体が痛いこと。。。



映像・言葉・音がパラレルに並べられているという凄さ

2017年06月02日 | 映画
河瀬直美監督
『光』

今朝になっても
余韻が残っていて

起きる前に
朝の脳は冴えている
昨日気づかなかったことが
ぱっとあらわれ

それは
映像と
音と
言葉を
並列に並べた
凄い映画手法だということ

こういう手法が全面に出ることなく
あくまでも
現実の世界を描きながら
またはスピリチュアルにもなりながら
しっかりと
映画の手法をとっている驚き

映画で映画について何かいう
映画批評の作品は
小説でも同じ手法の作品がたくさんある

でも
『光』は
その手法を全面に出さない
見事に隠され
しかも
魂に問いかけてくるだけの
<光>の意味の強さがある

おそらく
わたしたちがいう
<光>
と河瀬直美がいう
<光>
とは深みがまったく違う

ラストシーンの凄みは
河瀬直美の生きざまである

思い返せば
同じモチーフの繰り返し
初期のドキュメンタリー映画では
失踪した父に電話をかけ
会いにゆく
そういう喪失感

そして
育ててくれた
「おばあちゃん」のモチーフ

さらに
「おばあちゃん」が
認知症になった現実を
作品化したのは
10年前の
『殯の森』
『光』でも
行方不明になった
母を探すシーンが出てくる

というか
『光』を見ていて
河瀬直美の喪失のダメージと
それを人の喪失と共有させて
響かせるだけの
感性が素敵

中上健次が
大江健三郎が
同じテーマで
作品を何作も書くのと同じように
河瀬直美もまた
生涯を通じて
繰り返し繰り返し
表現する
家族の喪失
それを
ぎゅっと捕まえて
離さない

しかも
音声ガイドという現実を
モチーフにして
言葉の奥底まで
降りてくる
視覚障碍者と接することで
彼らの豊饒な想像力に目を向け
その本人に近い立ち位置まで
降りてくる感覚
それが
おそらく
河瀬直美の
共感感覚の優れたところ

映画という体と
左肩に言葉を乗せ
右肩に音を乗せて
河瀬直美は羽ばたく
魂の空へ

35か国で
上映が決まっているという
たくさんの人が
この作品を通じて
自身の思いや魂の響きに
耳を傾け
誰かの思いや魂の声に
素手で触るきっかけになるのなら
そんなに素敵なことはない

「思いが尽きないんだ」
というセリフが作品の中で
何度か繰り返されていた
尽きない思いこそ
生きていることに
目覚めている
証なのだ