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1日1本のみ、東京発松本行きの「あずさ」が一本だけある。わざわざ新宿まで出なくて済むので楽だ。
それに乗って甲府まで行こうと思っていたが、S社とのミーティングが長引き、ぎりぎりのタイミングになった。ホームのキオスクに駅弁くらいあるだろうとたかをくくっていたところ、全く駅弁の影も形もなく、ビールとつまみだけを買って、あずさ41号に乗り込んだ。
指定席を購入。平日の17時前。ゆったりと座れると思っていたが、自分の隣に人が座ってきた。周囲を見渡すと、ほぼ全て2席埋まっているところはなかった。ビールを飲みづらく、しばらく仕事をした。
甲府について宿に向かった。実は宿をとるのに難儀した。どこも空いておらず、たまに空いていると思ったら、やけに高額だった。この出張はアゴアシマクラだったが、さすがに2万円を超える宿には泊まれない。あきらめかけていた時、5,000円しない宿を見つけた。それが「萬集閣」だった。
宿については「お風呂さすらひ」で後述するが、値段相応の変わった宿だった。
荷物を置いて、さて飲みに行くか。
甲府に来るのは5年ぶり。駅前にはたいした酒場がないのは知っていたので、実は太田和彦さんの「居酒屋味酒覧」で行く店を決めてきたのだ。翌日、決戦が控えていたので、酒場を探す余裕はなかったのだ。
その店とは「くさ笛」。
「居酒屋味酒覧」(第三版まで)に掲載されている山梨県の酒場はここ一軒のみ。スマホのMAPを頼りに駅から歩いた。
2月いっぱいで閉店した甲府を象徴する百貨店、「岡島」を通り過ぎた辺りから、急に酒場が増え始めた。
むむ。甲府は駅前に盛り場があるわけではないのか。地方都市ではそんなことは珍しくない。広島だって、仙台だって、徳島や秋田も盛り場は駅前ではない。この甲府もそうだった。というか、初めて知った。歩いていく途中で、魅力的な酒場がいくつもあった。果たして、無事に「くさ笛」に着くかなと思っていたが、なんとか辿りついた。思っていた通り、独特の雰囲気のある酒場通りだった。
ワクワクとドキドキがないまぜになる中、お店の前に到着。勝手が分からず、背伸びしてお店の中を覗きこむと、お店はカウンターだけ。その半分に空席があった。ちょっとホッとして、店内に入る。
「こんばんは」と挨拶して着席すると、お母さんが優しい声で話しかけてくれた。「寒いねー」。その一言でリラックスできた。間違いなく、お母さんは自分が一見ということは分かっていたはずだ。お母さんの優しさなんだと思う。
「お飲みもの、何にします?」
お母さんともう一人、ものすこく若くて、美しい女性が聞いてきた。ちょっと待って、ドキドキするじゃないか。
今日は寒いから、熱燗だな。お酒の棚を見ると、「七賢」が見えた。あぁ、やっぱり甲斐国に来たら「七賢」だな。
「七賢」の熱燗と「マカロニサラダ」をオーダー。
カウンターの向こうの短冊メニューを見ると、いろいろな肴があり、それのいずれもリーズナブルだった。地方の名店にありがちな、きどった雰囲気でないのがいい。
お客さんはほとんどが常連さんで、普段はこんなに空いてないという。
「今夜はお客さんが少ないんです」。
隣の女性に話しかけられた。
「なら、お店に入れたのはラッキーだったのかな?」
そう言うと、お母さんが、「うん、普段なら入れないよー」と相槌を打った。
明日は雪予報で、とにかく今夜は冷える。それが理由なのか、お客さんの足が鈍ったようだ。
お酒をおかわりして、次の肴を物色する。
おや? 馴染みのないメニューがある。「くさ笛どっこ」とはなんだろう。お母さんに、尋ねた。
「奴の上にまぐろをのせてるんですよ」。
へぇ。
奴ときいたら、黙ってらんない。
「それ、お願いします」
お母さんに告げた。
お母さんは配慮の人だった。時々、自分の前に来ては、小咄をしてくれた。そのお母さんに、「店名の由来は何ですか?」と聞いた。
「島崎藤村の詩が好きでね」。そこには深い意味と物語があるらしい。これを書くにあたって太田さんの本を読み返すと、しっかりそれが書いてあり、馬鹿なこと聞いたなと思ったが、直接聞くのとでは、その重みは違う。それよりも、もう何百回と聞かれたであろう質問を嫌な顔をせずにお話ししてくれることが素晴らしい。
やがて、出てきた「草笛どっこ」。本当に豆腐にまぐろが載っていた。これが本当においしかった。まず、まぐろを奴にのせる発想はない。仮にこれを思いついても、やってみようとは思わない。だから、貴重だ。だからうまいのだ。
「これ、おいしい!」。
お母さんはにっこり笑った。
お母さんは、「ねぇ、いつも最初から日本酒飲んでるの?」と聞いてきた。
「いえ、普段は『ホッピー』を飲んでます」と答えると、「『ホッピー』って何?」となった。説明すると、お母さんはすぐに分かってくれ、「割材ね」と答えた。「でも、それ甲府にはないね」という。すると常連さんが、「あるよ、お母ちゃん」と口を揃えて応戦した。
「へぇ、じゃ今度飲んでみようかしら」とお母さん。次回、行ったら、「ホッピー」がメニューにあったりして。
こんな具合に、話しが盛り上がり、常連さんとも溶け込んでいった。東京と違うのは、常連さんの懐の深さである。それがいいのか、悪いのか、ある意味無防備である。東京なら、こんなことはない。表層の社交辞令の応酬である。「くさ笛」に集まる人はお母さんに共鳴する、優しい人たちなのだ。
熱燗をもう一本いただきながら、常連さんの話しを聞き、お母さんとお姉さんのやりとりに笑う。
楽しいな。この雰囲気、これが本来の酒場なんだろうなと思う。
自分は、お母さんと呼んでいたが、常連さんは皆、お母ちゃんと言った。隣の女性は、「ここに来たら、お母ちゃんよ」という。そうか、今夜はまだ自分はお母ちゃんとは言えない。でも「次回からはそう呼ばせてもらいます」と宣言した。
おっ、と。明日は大切な決戦だ。あまり深酒は出来ない。
お母さんにそう告げて、お会計をしてもらった。
楽しかった。今夜はここに来て良かった。心からそう思い、帰路についた。このお店のためだけに甲府に来る。そんな選択肢もありかなと思った。
新BLOGのURL入れておきますね。
すっかり女将のいる酒場が好きになりました。
新ブログ、楽しみです。
タイトルにどういう意味があるのか、気になります。