
モールの奥に進み、「ファットバー」の扉を開けた。
18時を過ぎ、開店したのだった。
カウンターの若い男に「生ビール」と言いかけて、「銘柄は?」と尋ねた。
すると若い男は、「プレモル」と随分手短に答えた。
やっぱり。危ないところだった。
デモ行進の前にプレモルとは景気づかない。
プレモルは嫌いなんだ。
「カールスバーグ」と「コロナ」の瓶ビールを用意していると若い兄ちゃんがいうから、前者をチョイスして、瓶ごとあおった。
2週間前の10万人集会「さよなら原発」に参加したときに知り合った活動家から誘われたことがきっかけだった。
「今度首相官邸前に来ればいい」。
こうしてデモを取材することを決めた。
興味を覚えたのは彼が仕切りにデモする通りを「清志郎ロード」と言っていることだった。
多分、RCサクセションのアルバム「Covers」に収録されている「Summertime Bluce」か「Love me Tender」が活動の象徴になっているのだろう。
奈良美智のTシャツ。
そしてRC。
反権力はいつもカルチャーを味方にして、その反動とする。
でも、ちょっと待って欲しい。
「Covers」が発表されたのは1988年である。ボクはその当時のことをよく覚えている。
「Covers」が発売されようとした矢先、発売元のレコード会社、東芝EMIは「すばらしすぎて発売できません」というコピーを掲げ、急遽一般紙の一面を使って発売中止を決めた。あまりにもセンセーショナルな出来事だった。
ボクが17歳のときだった。
結局、RCサククションは自主制作という形で「Covers」をリリースした。
この現象はロック界ではムーブメントになった。でも、一般的な文化的活動になったとは言えない。
だって、そのとき「清志郎ロード」ができる現象は起きなかったのだから。
だから、今夜ボクはそのムーブメントを見に行く。
そして、そのムーブメントはこの国を変えるきっかけになる可能性を持っているかを見てみようと思う。
カールスバーグのつまみに「ズッキーニのフライ」を貰った。
店内の壁は英字新聞の白茶けたレトロな髪を横暴に貼った造りで、あまりにもチープだった。
中肉中背のお兄ちゃん。何故、「ファットバー」なのか、聞いてみると、この店はすぐオーナーが変わるのだという。すでに3代目となったこのお兄ちゃんはその屋号も受け継ぎ、営業しているのだという。
そうすると、創業者はやはりファットだったのだろうか。
長い夜が始まった。
ボクは「清志郎通り」へ向かった。
18時を過ぎ、開店したのだった。
カウンターの若い男に「生ビール」と言いかけて、「銘柄は?」と尋ねた。
すると若い男は、「プレモル」と随分手短に答えた。
やっぱり。危ないところだった。
デモ行進の前にプレモルとは景気づかない。
プレモルは嫌いなんだ。
「カールスバーグ」と「コロナ」の瓶ビールを用意していると若い兄ちゃんがいうから、前者をチョイスして、瓶ごとあおった。
2週間前の10万人集会「さよなら原発」に参加したときに知り合った活動家から誘われたことがきっかけだった。
「今度首相官邸前に来ればいい」。
こうしてデモを取材することを決めた。
興味を覚えたのは彼が仕切りにデモする通りを「清志郎ロード」と言っていることだった。
多分、RCサクセションのアルバム「Covers」に収録されている「Summertime Bluce」か「Love me Tender」が活動の象徴になっているのだろう。
奈良美智のTシャツ。
そしてRC。
反権力はいつもカルチャーを味方にして、その反動とする。
でも、ちょっと待って欲しい。
「Covers」が発表されたのは1988年である。ボクはその当時のことをよく覚えている。
「Covers」が発売されようとした矢先、発売元のレコード会社、東芝EMIは「すばらしすぎて発売できません」というコピーを掲げ、急遽一般紙の一面を使って発売中止を決めた。あまりにもセンセーショナルな出来事だった。
ボクが17歳のときだった。
結局、RCサククションは自主制作という形で「Covers」をリリースした。
この現象はロック界ではムーブメントになった。でも、一般的な文化的活動になったとは言えない。
だって、そのとき「清志郎ロード」ができる現象は起きなかったのだから。
だから、今夜ボクはそのムーブメントを見に行く。
そして、そのムーブメントはこの国を変えるきっかけになる可能性を持っているかを見てみようと思う。
カールスバーグのつまみに「ズッキーニのフライ」を貰った。
店内の壁は英字新聞の白茶けたレトロな髪を横暴に貼った造りで、あまりにもチープだった。
中肉中背のお兄ちゃん。何故、「ファットバー」なのか、聞いてみると、この店はすぐオーナーが変わるのだという。すでに3代目となったこのお兄ちゃんはその屋号も受け継ぎ、営業しているのだという。
そうすると、創業者はやはりファットだったのだろうか。
長い夜が始まった。
ボクは「清志郎通り」へ向かった。
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