香港の街は激変していた。
ある日、かつて宿泊していたラッキーゲストハウスに行ってみようと思い立ち、歩いてみたのだが、道順を思いだせないのと街の変化が相まり、なかなか辿り着けない。
そこで、一度ペニンシュラホテルまで出てから、道を辿ってみることにした。
廣東ロードを北に進むと左手に港、右手に九龍公園がある。それはかつてと同じだが、九龍公園に大きなハイウェイのような道があり、かつてと風情が違う。九龍公園の北側にはかつてテニスコートがあったと記憶していたが、今はもうなかった。
更に北へ進み、オースチンロードを超えると、ようやく見覚えのある通りに出た。
ごちゃごちゃと雑居ビルが立ち並び、肉屋や魚屋の小売店が目立つようになると「幸運旅社」の文字が見えた。ラッキーゲストハウスは今も健在だった。
その近所に、ボクが毎朝通ったお粥屋があるはずだ。ボクはその近辺をつぶさに観察した。微かな記憶を頼りに、「たしかここだっけ」と思われる店は、今も確かに粥屋だったが、その趣はだいぶ変わっていた。
だが、ボクは躊躇することなく、店に入り、「担丸粥 一臥」と注文し、「有没有 油条?」と、店のおばちゃんに尋ねると、彼女は「こいつ、外国人なのに、普通話喋ってるよ」と言ったような言葉を厨房に言い、店内を爆笑させた。
なんか、嫌な感じだな。
そう思いながらもこらえて、ボクは粥と油条を黙々と食べた。やはり、専門店の粥はおいしい。
かつて、香港で普通話を話してもさして問題にはならなかった。このことを後に友人に話すと、香港が返還されてから中国人が香港にたくさん流入してきたが、香港人はそれをよく思っていないらしい。だから、普通話に対してもアレルギーがあるのではないか、と教えてくれた。
友人の家へ行くために、夕方に妻と地下鉄の駅で待ち合わせをした。
それまでボクは中環にある雨傘革命の現場を見て歩いた。
道路を封鎖したおびただしいテントが色とりどりに道の果てまで続いている。
ボクは現場に降りて、テントで暮らす若者を見て歩いた。EUとイギリス、そして中国と香港。背景は全く違うが、同化されたくない側が抵抗する構図はなんだか似ていると思う。
中環から金鍾まで歩き、歩き疲れた。
街合わせの時間まで2時間以上もあることから、ボクは手ごろな店に入り、ビールでも飲もうと思った。
するとピンクのド派手な店が目の前に現れた。軽快な音楽が心地よい。
どうやら、バーらしい。
ボクは店に入って、カウンターに腰かけた。
目の前に「ハイネケン」のタワーがある。
ボクはその生ビールをオーダーした。
ビールはキンキンに冷えていた。
うまし。
季節は秋に入ったが、未だに香港は暑かった。
肴は頼む気持ちはなかったが、一応オーダーを眺めてみた。
すると、この店がどうやらメキシカンバーであるらしいことが分かった。
香港に来て、メキシコとは。
1杯飲んで2杯目をおかわりすると、お店のにいちゃんが、ナチョスをサービスしてくれた。
待ち合わせ時間1時間前に店を出ようと思い、携帯電話に目を遣ると、その時間まで30分程度あった。
ゆっくりと時間を調整しながらハイネケンをちびりとやった。
客はボクの他に一人。西洋人である。
店はフリーのwifiが入り、ボクは携帯サイトを見ながら時間を潰した。
ハイネケンのタンブラーがなくなり、携帯電話の時計を見ると、ちょうど待ち合わせ時間の1時間前だ。いいころ合いだとお勘定をしてもらい、席を立った。
定員にお礼を言い、何気なく店の壁にある時計を見た。すると、店の時計はボクの携帯電話の時間と1時間の時差があった。
そうだった、ボクの携帯電話の時計は日本時間のままだったのである。
今はなき、タイガーバームガーデン、そしてアバディーン。どうなってるか見に行ってみたいよ。
そうそう、香港人のパラグライダーやってる知り合いもできたから、香港で飛んでもみたいなあ。
そういうと、師が行った時、雨傘革命の真っ最中だったんだよね。その雨傘革命は失敗。最近の香港はすっかり静かになってるみたいだけど、かなり中国化しちゃってるのかなあ。
さて、次はどんな香港の店に行くのかな。
しかし、ラッキーがまだやってるというのにはホント驚いたよ。
あのような民主化運動が起こることが、中国、いや共産党にとって最も恐れていることだろうと思う。
文中にも書いたけれど、香港は中国本土からの観光客が大挙しているらしい。
いろんな意味で香港は変わったと思う。
是非、この目で見てきてもらいたいよ。師よ。