
お洒落なカフェや古い純喫茶ばかりが喫茶店ではない。
マガジンハウスの雑誌の特集では決して取り上げられることのない安価な喫茶店。確かに、コーヒーの味も店の装飾や音楽も瞠目するものはない。でも、こういう喫茶店にこそ、人間のドラマがあると思うのだ。
客層も多様だ。
老若男女。ひっきりなしにお客が入ってきては、カウンターに並ぶ。そう若い女性も少なくない。恐らく仕事の休憩時間なのだろう。一人で入って、スマホをいじりながらコーヒーを飲む。
歳をとった初老の男性は、散歩コースの途中で立ち寄ったという感じだ。きっと、この喫茶店が散歩コースになっているのだろう。或いは、三井記念病院に薬をとりに行った帰りなのかもしれない、
もちろん、サラリーマンだっている。営業訪問の時間調整に、或いは単なるサボタージュで。サラリーマンらは分煙の喫煙室へと消えていく。
そして、ボクは、ちょっと仕事の休憩。
190円のホットコーヒーと生ハムのパスタ。
椅子もテーブルも洒落たものではないけれど、ボクにとっては極上な時間。この時間はボクだけのもの。
タバコの煙は嫌いだけれど、ボクだってかつての愛煙家。最近、肩身を狭くしている彼らを見ると、ちょっと気の毒にも思う。この喫茶店は今やマイノリティになったスモーカーらの数少ない止まり木。
スモーカーも、バイトの女性も、散歩の途中の老人も、そしてボクも、何故かこの時間に同じ空間で過ごす不思議。
時には喜劇。時には悲劇。そして時には悲喜こもごもが入り混じった複雑なドラマ。都会の表層の薄皮をはぐと、その下は都会人の皮下脂肪のようにドロドロとした異臭を放ちそうな愛憎が蠢いている。
そんなことをボクは想像してしまう。
コーヒーが薫る湯気を見ながら。
お洒落なカフェもいい。でも、ボクはこうした時間と休息の対価を支払いに来る人らに興味を持つ。たとえ、80年代のしがないポップアートが黄ばんだ壁に掲げられているだけの、素っ気ない喫茶店でも。
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