遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 






    鉄腕アトムがもともとは女の子だったって知っていましたか?  わたしはまったく知りませんでした。アトムのブーツが赤いのは女の子だからなのだそうです。う~ん それを知ってうなづけるところがありました。アトムがなぜ好きだったのか...アトムが完全無欠のヒーローだったらあんなに好きにはならなかっただろう...と思うのです。アトムはつよい正義の味方でしたが繊細でやはらかでした。そしてアトムはじっさいよく壊れました。アトムは最初1万馬力だったはず、それがうろ覚えですが、史上最大のロボットの巻のとき、プル-ト-に敗れて壊れ、天馬博士が改造してしまい10万馬力になるのです。10万馬力になってもアトムは不完全でした。ロボットでありながら人間のこころを持っていたアトムはヒーローでありながらいつも揺らいでいました。

鉄腕アトムの裏話

   
    わたしはエロティシズムとはただ即物的肉体的なものではないと思います。...と申しますか、それ以前の予感のような気配のような匂いのようなあわいにあるもののように感じそこに惹かれます。手塚漫画のなかにエロティシズムがあると指摘される方がいます。わたしもう思うのです。(とくに初期の作品)手塚さんは宝塚を子どものころごらんになったそうですが、その影響もあるのでしょうね。リボンの騎士のサファイヤは女と生まれながら勇敢な王子として生きなければなりませんでした。そして王子でありながら、隣国の王子に恋心を抱きます。そこにはひそかなエロティシズムがありました。

    そして後年、山岸涼子、萩尾望都、大島弓子にであったとき、つよく惹かれる作品にはいつもひそかなエロティシズムを感じていたのだと気がついて今驚いています。ポーの一族、日出る処の天子、野イバラ荘園、ミモザ館でつかまえて、7月7日に、海にいるのは....えとせとら....エロティシズムは美と限りなくむすびついています。生の極みでありながら死と限りなくちかいものです。しかし竹宮恵子さんの風と木の詩の裸形や即物的表現にはついてゆけませんでした。エロティシズムは秘してこそなおにじみ出るものだと思うのです。

私的大島弓子論(8年くらい前に書いたものです)

    男とか女とか超えたところに、青いもの、未分化なもの、爛漫たる成熟の翳にある死にその匂いがあります。そして異形のもの...未成熟な青さや欠けたもの、喪われたものなかにそれはあります。禁忌を侵そうとするときそれは生まれます。それはある種の羞恥とむすびついています。太陽の下で堂々と行われることにはないようです。本能のなせるわざでしょうか。子どものころヨイトマケを歌う丸山明宏さんという歌手に惹き付けられた記憶がありますが。それは見てはならぬものを見るような羞恥をともなった感覚でした。まだ美輪さんと三島さんの関係も知りませんでしたから、それは直感だったのだと思います。今の美輪さんを拝見して(以前同じ飛行機に乗り合わせました)エロティシズムは感じませんが、荒地の魔女やモロの声はすごいなぁと思います。台詞の声にあれだけの情報を含ませられる方はいらっしゃいません。


三輪さんのことば

ある三島論


    さて、語りを聞いてエロティシズムを感じたことはありますか? じつはわたしはいまだかってないのですね。わたしが聞いた語りは清く正しくうつくしくそして楽しく愉快に...の範疇のおはなしがほとんどでしたし民話の色話はエロティズムをわたしは感じませんでした。学校での読み聞かせや児童書ではかなり徹底的に排除していますね。そのなかでつつじの娘は異質です。聴いているとき、とくに女子の目がひたむきになりきらきらと熱を帯びてくるように思います。思春期の子どもたちにもっと戀のものがたりを語っていいのではと感じることがあります。

    
    雪女はその底にエロティシズムを湛えています。お雪自身は侵されざる存在であり死であると同時に愛であるのですから...。そして子どもを生み、また無機的な存在=死に回帰してゆくのですから。子どもたちは果たしてどのように聞いていたのでしょう。あやうさを、想いだけではどうにもならぬこともあるのだということ感じ取ってくれたでしょうか? もう一捌けほのかな色を付け加えてもよかったかなと思います。


    おとなに戀のものがたりを語る時すら、今までは無意識のうちに避けてきた、あえて透明な静謐なものにしてしまったな...という想いがあるのです。弥陀ヶ原心中は情交のない心中なのですが、それって深いエロティシズムとして語れないことはない。しかしそれを雪に封じ込めるように清らかに語ってきてしまった。(と思っている).....こんなことを書くのも今、染殿の后...異形、変身、の恋物語....のことであたまがいっぱいなのです。聴き手がおとなであるときも慣習に従って避けてきたことを、この際正面切ってことばにしたものか、それとも秘して秘して伝えたものか悩んでいるのでした。


   子どもたちにたいしてもメディアが漫画や映像において即物的な見るに耐えない画像や情報を流しているこのときに、語りのなかで自主規制することはないのではないか....上質の叙情性やほのかなエロティシズムは子どもたちが生きてゆくうえで、とてもとても必要ではないかと思ったりもしています。自分自身を守る、相手の身体や立場を思いやる気持ちともつがってゆくように思います。もっとも感受性の高い子どもたちは語り手が心配するよりもっと先をいっているかもしれません。この項はまだ語りつくせないのであとでまた書こうと思います。






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