このところ 戦後のアメリカ支配 が 表に 明らかにされつつあります。
たとえば ニュー山王ホテルにおける 日米合同委員会が 政策を決めて
いる など 表ざたにはならなかった 情報が ふつうに 出てくる。
これは なにを 意味するか?
私見では アメリカの支配がおわる ... 終わったことだから表に出る
のだろうと .....
WEF DS 世界政府と いわれるものの 直接統治になるのだろう と
感じています。安倍派叩きも その一端です。
なお 以下に書かれているのは 核密約のみです。
戦後、最大のタブーとされてきた日米間の「密約問題」…日本がアメリカにウラ側で結ばされていた「密約」の正体(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース
アメリカによる支配はなぜつづくのか? 第二次大戦のあと、日本と同じくアメリカとの軍事同盟のもとで主権を失っていたドイツやイタリア、台湾、フィリピン、タイ、パ...
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密約
日本の戦後史を振り返ってみると、アメリカとのあいだで国家の根幹に触れるような、外交交渉を行ったのは、次の3人の首相たちだけだったと言えるでしょう。 そしてそのとき日本が手にした成果と、そのウラ側で結ばされたおもな密約は、それぞれ次の通りです。
吉田茂(CIAスパイ名簿記載) 占領の終結 指揮権密約(1952年と54年)(*1)
岸信介(CIAスパイ名簿記載) 親米体制の確立 事前協議密約/基地権密約/朝鮮戦争・自由出撃密約(1960年)
佐藤栄作 沖縄返還 沖縄核密約/財政密約(1969年) ごほうびのノーベル平和賞
ミスター外務省東郷の罪
岸政権のもとで生まれ、佐藤政権の沖縄返還を経て現在までつづく「日米同盟」の“奥の院”について、ただひとり全貌を知る立場にあったのは東郷だけということになります。歴史家たちに、もっとも優秀な戦後の外交官は誰かと投票させれば、おそらく彼が1位となるでしょう。 しかし皮肉なことにその東郷が、結果として密約文書についての解釈と処理を誤り、現在までつづく大きな政治的混乱を生みだすきっかけをつくってしまったのです。
村田良平外務次官の証言 核持ち込みに関する密約はあったのか。
「1960年の安保条約改定交渉時、核兵器を搭載する米国艦船や米軍機の日本への立ち寄りと領海通過には、事前協議は必要ないとの密約が日米間にあった。私が外務次官に任命された後、〔その文書を〕前任者から引き継いだように記憶している。1枚紙に手書きの日本語で、その趣旨が書かれていた。それを、お仕えする外務大臣にちゃんと報告申し上げるようにということだった。外部に漏れては困る話ということだった。紙は次官室のファイルに入れ、次官を辞める際、後任に引き継いだ」
――昨年〔2008年〕9月に出版した著書「村田良平回想録」(ミネルヴァ書房)で密約に触れている。(*4)ためらいはなかったか。 「この際、正直に書くべきことは書いた方がいいと思い、意識的に書いた。(略)核について、へんなごまかしはやめて正直ベースの議論をやるべきだ。政府は国会答弁などにおいて、国民を欺き続けて今日に至っている。だって、本当にそういう、密約というか、了解はあったわけだから」 ――90年代末、密約の存在を裏付ける公文書〔『知ってはいけない2』27ページの「討議の記録」のこと:詳しくは71ページ以下を参照〕が米国で開示されたが、日本政府は否定した。
「政府の国会対応の異常さも一因だと思う。いっぺんやった答弁を変えることは許されないという変な不文律がある。謝ればいいんですよ、国民に。微妙な問題で国民感情もあるからこういう答弁をしてきたと。そんなことはないなんて言うもんだから、矛盾が重なる一方になってしまった」 *
さらに連載記事〈なぜ日本だけが「まともな主権国家」になれないのか…アメリカとの「3つの密約」に隠された戦後日本の「最後の謎」〉では、日本が「主権国家」になれない「戦後日本」という国の本当の姿について解説しています。 *
(*2)加えて第二次大戦の最末期には、義父である東郷茂徳外務大臣の秘書官として、終戦工作にも立ち会っています
(*3)「米の核持ち込み「密約あった」村田元次官実名で証言」(2009年6月28日) (*4)すでにこの回想録のなかで村田氏は「「米国が協議して来ない以上〔核兵器の〕持込みは行われていません」との政府答弁は寄港、領海通行、領空については明らかに国民に虚偽を述べたと言わざるをえない」と証言していました