すっかりお休みしてしまいました。みなさま お元気でお過ごしでしょうか? 今年も同じルートで列島縦断の台風がつづいていますね。
わたしたちはなにかわからない異空間にまぎれこんでしまったのでしょうか? 不可思議なことが頻繁に起こり それを不思議とも思わず 見た目冷静に受け止めているひとたちばかりです。
1週間前台風の中を 長野でひらかれた 満蒙青少年義勇軍シンポジウムに参加して帰ってきてからでさえ 遠い月日が経ったような気がします。
4日前は 茨城の霞ヶ浦予科練平和記念館に行きました。桜・土浦ICを下りる前から喉が痛くなりました。娘はマスクをかけていたのですがヒリヒリするといいました。目も沁みてきました。あたらしい測定器をもってこなかったのが悔やまれました。少女漫画から抜け出したような 細面の足の長い少年たちが連れ立って歩いています。もちろん マスクなどかけていません。
霞ヶ浦は平日でしたが 見学者は多かった。予科練の少年たちが艦内で寝たハンモックがありました。終戦間際にはハンモックのロープの換えさえなくなり 神風特別攻撃隊 第一護皇白鷺隊の野田哲夫二飛曹は擦り切れたので送ってくれと家族に手紙を書いています。こはれ隣町に住む菊江さんに聴いた話です。平和記念館でぐっときたのは勇壮な手紙ではありませんでした。.....出撃の前におかあさんにちょっとでも会いたい、これは僕のほんとうの心です..... おとうさん おかあさん さようなら.....
平和記念館は隣接する霞ヶ浦自衛隊航空基地内にもありました。おなじような年頃に迷彩服の隊員が15.6名 歩いていました。
そのあと おなじ茨城県 水戸市内原 郷土史義勇軍資料館に行きました。
内原は...郷土資料館のなかにおかれていてだれもいなかった....
両方とも だまされたのです。国に。予科練を志願した 子どもたちのなかに 最初からの特攻志願はどれだけいたのでしょうか? 陸軍特攻の知覧では 志願するかしないかという 司令官の問いかけに 最初全員が志願しないと書こうとしました。彼らは かっこいい 空中戦をしたくて志願したのです。海軍は志願でさえなかった。ある隊ではあいうえお順でした。
満蒙青少年義勇軍のほうは 土地をいっぱいもらって開拓農家になるつもりで 子どもたち 行ったんです。40%は先生に薦められて.... 割り当てられて困っている先生が気の毒だからって.....でも 関東軍の穴埋めでした。国境警備 軍事訓練 爆弾抱えて ソ連軍の戦車に飛び込む訓練もしたそうです。
予科練も満蒙青少年義勇軍も根は同じ、国は兵員の不足を子どもで補おうとしたんですね。14.5歳だから 強制するわけにはいかない、だから志願にした。宣伝して 騙して 美名のもとに消耗品にした。子どもの武装移民なんて 世界のどこにもない。だから戦後も隠そうとした。
同じように だまされたのに 待遇はぜんぜん 違っていた。予科練の食器は陶器でしたが 内原の食器はベークライト(プラスティックみたいなもの)とホウロウでした。予科練の子は 休みの日 親子丼やうな丼やぜんざいを食べたと書いている。................
予科練の子達は食事をつくってもらいましたが 内原では自分たちがつくりました。縫い物もしました。開拓だからという意味もあったのでしょうが いつもおなかがすいていたようです。
満州ではこーりゃん飯でした。ぜんざいがでたときはみんな大喜び.... ひとりの少年が帽子の下におわんを隠して持ち出そうとしました。みんな 怒って袋叩きにした。その子は死にました。荼毘にふすとき 煙がみな東に流れていった.....日本に帰ったんだと語り草になったそうです。
義勇軍の生き残り 金子さんがわたしだけに語ってくださった 佐藤先生と子どもたちの話がとてもいたかった。金子さんは先生にかわいがられ 経理を手伝っていました。ソ連軍侵攻の直前、召集令状が来た先生はひげづらだったので ヒゲを剃りたい 髭剃りをさがしてきてくれないかと金子少年に頼みました。金子さんがなんとかさがしてくると とても喜んだそうです。佐藤先生が戦場にむかったあと ソ連が攻めてきました。先生の奥さんは弾があたって死んだようです。先生の子どもがふたり トラックの上に取り残されていました。にーーちゃーーん にーーちゃーーーん子どもたちが手を振って 助けを求めている。でも自分の命があぶない。仲間と黙殺することにしました。金子さんは ポツリと オレが殺したようなものだ....といいました。
おとなたちも土地をもらえるとよろこんで 家族ぐるみで ぐるみで満州に渡った だが その土地は中国人から安い値段で強制的に取り上げた土地だった。開拓民もたいへんなことになった。男たちは軍隊にひっぱられ 妻たちは子を背負い 手をひいて逃げた。集団自決を強いられたひと ソ連兵 中国人に殺されたひと 援けられたひと 子どもを殺したひと 棄てたひと ソ連兵に犯されたひと 零下の収容所でひとはつぎつぎ死んだ。
予科練の子は8割死にました。
満蒙青少年義勇軍は 3割亡くなったのではといわれます。帰ってから 死んだひとも多いのです。
満蒙青少年義勇軍は長野県がいちばん多かった。それはなぜだと想いますか?私は2.24事件のことをはじめて知りました。長野は白樺派の影響をつよくうけ 作文教育が盛んだった。たとえば なぜびんぼうなのか 考えさせ 作文を書かせました。それが当局ににらまれ 共産党員はいないのに 長野の赤化教育 と新聞は書きたて 作文教育をした先生は警察につかまり 追放もされた(。壷井栄の24の瞳 はじつはこの事件にかけているのだそうです)天皇陛下は 「長野の教育はどうなっているのかね」とご下問になった。 信濃教育会はひれふした...なんとしても汚名をそそがなくてはならない。そこで 少年たちが満州に送られた...。
天皇陛下は特攻の成果をお喜びになったそうです。..... そして 自分たちは特攻に行かない司令官たちは少年たちをムダ死にに駆り立てた。
知れば知るほどつらい。 8月になって ソ連参戦の情報を手にした関東軍幹部は家族ともども 列車を仕立てて逃げた.... ひとが足りないから 8月9日 ソ連侵攻してから 満蒙青少年義勇軍の先生たち 18歳になった子達に赤紙を出している。 戦死しなくても ソ連につれて行かれ シベリア酷寒の 強制労働で大勢 帰らぬひとになりました。逃避行のなかで死んだ子も大勢います。
昔から この国は変わらない。 国民を騙すことなど なんとも思っていない。それを肝に銘じたほうがいい。
従軍慰安婦は存在しないからあやまる必要はない などと どこかの政治家はいっていますが 満蒙青少年義勇軍生き残りの金田さんはこういった。
「わたしは自分とおなじ年くらいの中国人の慰安婦の少女3.4人と話した。」「畑で働いていたら 日本の軍人がきて 金になる仕事があると連れてこられた 逃げたい 死にたくない」
「わたしは逃げろ といいました。でも たぶん 死んでしまったのだろうと思います」
従軍慰安婦はいたんですよ 安倍さん。実際にあったことをなかったことにしようとする国は 誇るに足りますか? 美しい国ですか?
子どもたちを身代わりにする国はどうですか? 美しい国ですか? 安倍さん 教えてください。