今日はドリームカルテット月見草。
チェロ。
ヴァイオリンとヴィオラ。
Bartolomeo Campagnoliの「6 flute Quartet」
ヴァイオリニストで作曲家で、イタリアスタイルのヴァイオリン奏法を伝えるためにヨーロッパ中を旅しました。
に師事したポール グラスタロバに学びました。
ノイシュトレリッツ教会
ヴァイオリンの木村直子先生、ヴィオラ金重美代さん、チェロ木村政雄先生とフルート久米で合わせです。
チェロ。
ヴァイオリンとヴィオラ。
発表会で、モーツァルトのカルテットCdurを演奏して以来。
その前にやっていたライヒャのフルートカルテットCdur band2-2の続きをしようか?と言っていましたが、新しい楽譜を持っていったら「これをやりましょうか?」となりました。
Bartolomeo Campagnoliの「6 flute Quartet」
作者も、楽譜も初めて見ましたが、動画を聴いて「いいかな?」と思って印刷を、持ってきました。
カルテット1を弾いてみたら、「かわいい。」
「モーツァルトっぽい。」と、気に入って頂けたみたいで「次も」「つぎ!」となり、結局6曲全て時間ギリギリまで初見で演奏しました。
カルテット1を弾いてみたら、「かわいい。」
「モーツァルトっぽい。」と、気に入って頂けたみたいで「次も」「つぎ!」となり、結局6曲全て時間ギリギリまで初見で演奏しました。
コンプリート!
パルトロメオ カンバニョーリ(1751-1827年)
イタリア チェント生まれ、メクレンブルク=シュトレーリッツ公国ノイズトレリッツ没
ヴァイオリニストで作曲家で、イタリアスタイルのヴァイオリン奏法を伝えるためにヨーロッパ中を旅しました。
初めはボローニャで12歳からはモデナでジュゼッペ タルティーニ
に師事したポール グラスタロバに学びました。
1768年ヴェネチアとパドバでさらに学びます。
その後フィレンツェに数年間住み、そこでバイオリニストのピエトロ バルディーニ
に師事しました。
フィレンツェでは、ペルゴラ劇場
のオーケストラでも演奏しました。
1775 年に彼はローマに行き、アルゼンチン劇場
テアトロ アルゼンチン (パニーニ、1747 年、ルーヴル美術館)
のオーケストラで演奏しました。
1776年、バイエルンのフライジング司教
の
フライジンクのセント ピーター アンド ポール教区教会のロココ様式のインテリア
カペルマイスターに任命されました。
1778 年にグロドノで 3 か月、ワルシャワで 3 か月過ごし、北ヨーロッパをツアーしてコンサートを行いました。
1779 年にドレスデンのクールランド公爵
の宮廷楽長に赴任しました。
1783年、スウェーデンを旅し、ストックホルムで王立スウェーデン音楽アカデミーの会員に選ばれました。
1784年、主にドイツとオーストリアのヨーロッパの都市をツアーしました。
1797年、彼はヴァイオリン演奏に関する論文である「メトド・パー・ヴィオリーノ」
を出版しました。バロックとクラシック時代の間の過渡期のスタイルを示すものと見なすことができます。
クールラント公爵の宮廷を去り、1797 年にライプツィヒ ゲヴァントハウス管弦楽団の初代コンサートマスターに任命され、1818 年までその地位に留まりました。カンパニョーリがライプツィヒに滞在している間、バイオリニストで作曲家のルイ・シュポアは、「カンパニョーリがロドルフ・クロイツァーのヴァイオリン協奏曲を演奏するのを聞いた。」と日記に書いています。
彼の 2 人の娘、アルベルティーナとジャンネッタは歌手で、1816 年に一緒にイタリアをツアーしました。彼は娘たちのキャリアを守るためにゲヴァントハウス管弦楽団を辞任しました。
一家は最終的に 1826 年にノイシュトレリッツ
ノイシュトレリッツ教会
に定住し、1827 年に彼はそこで亡くなりました。
自伝書も持っていますし、CDもありますが映像はなかったのです。
あの音色は、誰にも真似できない音楽です。
生き証人の語りに涙が胸が一杯に・・・
渡辺茂夫さんの音楽人生には胸が傷みます。ヴァイオリンの才能が彼を幸せに導くことがなかったことがとても残念です。
教育者は本当に深く考えなければならないと思います。
今のアメリカの大学の音楽教育は、先生の他に、メンタルを見る先生やアシスタントティーチャーなど何人ものスタッフが生徒の学業だけでなく生活をも総合的に支えています。
救いは現在、お父さんと2人笑顔だったことですね。