昨日オセアニア県立図書館から借りた、ダニエル・コーエン著、「迷走する資本主義」(新泉社、2009年4月15日初版、1800円)は、ポスト産業社会である現代を理解するのに新たな視点をもたらしてくれる、フランス人の著作らしい大変ユニークな本でした。
150ページほどの軽い本ですので、あっという間に読めます。関心がある方にはお勧めします。
例えば、印象に残っているところでは、19世紀と現代のグローバリゼーションについての比較です。
特に19世紀の第一次グローバリゼーションのインパクトの大きさは、現代の第二次グローバリゼーションを凌駕する部分が多くあったようです。
それは<金融のグローバル化>と<国際的な移民>という、一見すると不可解に思う分野において端的に現れております。
◆1913年段階では、ロンドンのシティでは、国内預金の50%を外国に持ち出していたこと。フランスでも、国内預金の25%を外国に投資していたこと。
(現在は、例えば中国が米国の赤字を埋めているように、新興国によって先進国がファイナンスされているという、パラドキシカルな状況となっております。)
◆出生国とは異なる国に居住している人々を移民と呼ぶなら、1913年には世界人口の10%が移民に相当したこと。現在はたったの3%です。
◆契約の遵守や所有権の尊重といったことにおいても、19世紀においてはより急速な統合が確認されていたこと。ボンベイで締結した契約はロンドンで契約した契約と同じ効力がありました。
この19世紀のグローバリゼーションから得られる教訓は、現代のグローバリゼーションの帰結を考える上でも大変有益です。
◆1820年、イギリスの裕福度はインドよりも1人あたり2倍でした。しかし、1913年には所得格差は10倍へと拡大しております。このことから得られるシンプルな結論は、国際貿易は貧困国を豊かにするものではない、という結論です。
こうした事実は、国際分業体制の力学を考える時によく引き合いに出される、アダム・スミス(個人間)とリカード(国家間)の比較優位論(比較生産費説)によっては、こうした貧富の格差の拡大の問題は決して理解できない点を、コーエンは見事に例証しております。
こうした点は、まさにこれまでの筆者の常識的な概念を打ち破る、瞠目すべき事実です。
もう1つ、シカゴ大学でノーベル賞を受賞したゲーリー・ベッカーの「選択的ペア理論」も、この本で初めて知りました。この理論は、<社会が放置された場合>に展開される力作用を見事に示しております。
ベッカーの理論によれば、ある男女が結婚相手を見つけようとする場合、2種類の組み合わせが可能であると言います。1番目の組み合わせは、金持ち美男子と金持ち美女の組み合わせです。
これが実は、他の独身男性たちに激震をもたらします。何故なら、この組み合わせに該当しない恵まれない独身の男たちは、結婚相手としては、美しく金持ちの独身女性がいなくなるため、恵まれない者同士で結婚する以外、選択肢を持てなくなる可能性が生じるからです。
このくだりに、果たしてドキリともしない、現代の恵まれない独身男性の方々はいるものでしょうか?
そして、重要な点は、これと同じ論証が社会の隅々にまで行き渡るという点です。こうして、社会の各階層は、自らの階層よりも低い社会階層に対して閉鎖的となっていきます。
しかし希望はあります。
ベッカーによれば、上記とは異なる2つめの非対称な組み合わせが想定出来ると言います。醜く貧しい男が、美しく金持ちの女性と結婚することを想像することが、論理的には可能なのです。その理由は?月並みな表現をすれば、彼が優しいからです。
ベッカーの論証では、結婚とは、資産(時間、愛情、お金)を共有すると同時に、この共有資産を分配するルールを設定することだそうです。
醜い男は美女に対して、より多くのものが提供できると、きちんと説得できると、ベッカーの理論は示します。(ここ、大事ですよ)彼は、美男子よりもずっと優しくすれば、お金がなくとも美女に対してバランスをとることができます。彼には、そもそも優しさ以外は与えるものがありません。これが草食系男子が増えている真の理由でしょう。
そしてこの点こそが、あの陣内が藤原紀香に対して過ってしまった最大のポイントだったことが、この選択的ペア理論からも明らかですね。
この理論と同じことが、かつての産業社会、そして今のポスト産業社会にもあてはまることが、この本の著者が言いたかったことです。
これ以上は、この本を読んで頂く以外にはありません。他にも沢山、こうした新たな視点が書かれております。筆者が言葉足らずの論評するのはいかにも惜しい。
150ページほどの軽い本ですので、あっという間に読めます。関心がある方にはお勧めします。
例えば、印象に残っているところでは、19世紀と現代のグローバリゼーションについての比較です。
特に19世紀の第一次グローバリゼーションのインパクトの大きさは、現代の第二次グローバリゼーションを凌駕する部分が多くあったようです。
それは<金融のグローバル化>と<国際的な移民>という、一見すると不可解に思う分野において端的に現れております。
◆1913年段階では、ロンドンのシティでは、国内預金の50%を外国に持ち出していたこと。フランスでも、国内預金の25%を外国に投資していたこと。
(現在は、例えば中国が米国の赤字を埋めているように、新興国によって先進国がファイナンスされているという、パラドキシカルな状況となっております。)
◆出生国とは異なる国に居住している人々を移民と呼ぶなら、1913年には世界人口の10%が移民に相当したこと。現在はたったの3%です。
◆契約の遵守や所有権の尊重といったことにおいても、19世紀においてはより急速な統合が確認されていたこと。ボンベイで締結した契約はロンドンで契約した契約と同じ効力がありました。
この19世紀のグローバリゼーションから得られる教訓は、現代のグローバリゼーションの帰結を考える上でも大変有益です。
◆1820年、イギリスの裕福度はインドよりも1人あたり2倍でした。しかし、1913年には所得格差は10倍へと拡大しております。このことから得られるシンプルな結論は、国際貿易は貧困国を豊かにするものではない、という結論です。
こうした事実は、国際分業体制の力学を考える時によく引き合いに出される、アダム・スミス(個人間)とリカード(国家間)の比較優位論(比較生産費説)によっては、こうした貧富の格差の拡大の問題は決して理解できない点を、コーエンは見事に例証しております。
こうした点は、まさにこれまでの筆者の常識的な概念を打ち破る、瞠目すべき事実です。
もう1つ、シカゴ大学でノーベル賞を受賞したゲーリー・ベッカーの「選択的ペア理論」も、この本で初めて知りました。この理論は、<社会が放置された場合>に展開される力作用を見事に示しております。
ベッカーの理論によれば、ある男女が結婚相手を見つけようとする場合、2種類の組み合わせが可能であると言います。1番目の組み合わせは、金持ち美男子と金持ち美女の組み合わせです。
これが実は、他の独身男性たちに激震をもたらします。何故なら、この組み合わせに該当しない恵まれない独身の男たちは、結婚相手としては、美しく金持ちの独身女性がいなくなるため、恵まれない者同士で結婚する以外、選択肢を持てなくなる可能性が生じるからです。
このくだりに、果たしてドキリともしない、現代の恵まれない独身男性の方々はいるものでしょうか?
そして、重要な点は、これと同じ論証が社会の隅々にまで行き渡るという点です。こうして、社会の各階層は、自らの階層よりも低い社会階層に対して閉鎖的となっていきます。
しかし希望はあります。
ベッカーによれば、上記とは異なる2つめの非対称な組み合わせが想定出来ると言います。醜く貧しい男が、美しく金持ちの女性と結婚することを想像することが、論理的には可能なのです。その理由は?月並みな表現をすれば、彼が優しいからです。
ベッカーの論証では、結婚とは、資産(時間、愛情、お金)を共有すると同時に、この共有資産を分配するルールを設定することだそうです。
醜い男は美女に対して、より多くのものが提供できると、きちんと説得できると、ベッカーの理論は示します。(ここ、大事ですよ)彼は、美男子よりもずっと優しくすれば、お金がなくとも美女に対してバランスをとることができます。彼には、そもそも優しさ以外は与えるものがありません。これが草食系男子が増えている真の理由でしょう。
そしてこの点こそが、あの陣内が藤原紀香に対して過ってしまった最大のポイントだったことが、この選択的ペア理論からも明らかですね。
この理論と同じことが、かつての産業社会、そして今のポスト産業社会にもあてはまることが、この本の著者が言いたかったことです。
これ以上は、この本を読んで頂く以外にはありません。他にも沢山、こうした新たな視点が書かれております。筆者が言葉足らずの論評するのはいかにも惜しい。