ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

後は、国民の健康と安全を守る、という政治的意思が、日本政府にあるかどうかということ

2011年11月01日 | 日本とわたし
出典 NHK
ピックアップ@アジア 「チェルノブイリと福島・ベラルーシから学ぶこと」
2011年08月04日 (木)石川一洋 解説委員
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/450/91326.html


石川)まず日本の基準です。
日本は、食品については、放射性物質の基準が無かったために、暫定的な基準を三月に急遽定めました。
今現在問題となるのは、半減期の長い放射性セシウムです。
ほとんどの食品で、1キログラムあたり500ベクレル、飲用水と牛乳やミルクなど乳製品は、200ベクレルとされています。




しかし、ネステレンコ所長は、基準が甘すぎると批判しています。
「日本の基準は、ベラルーシに比べて、あまりに緩すぎて、酷いと言っても良いくらいです。
ベラルーシでは、たとえば3歳児までの子供用の牛乳など、食物の許容限度は、放射性セシウムで37ベクレルです」

日本が、飲料水と乳製品については200ベクレルとしていますが、その他は、一律に500ベクレルという大雑把な基準となっています。
しかしベラルーシでは、食品の種類ごとに、細かく基準が定められています。




3歳児までの乳幼児用の食品は、1キログラムあたり37ベクレル、飲料水は10ベクレル、牛乳は100ベクレル、パンは40ベクレル、牛肉は500ベクレル、豚肉、鶏肉は180ベクレルなど、食品ごとに基準値が細かく定められ、
全般的に、日本よりもかなり厳しめになっています。

吉井)でも、日本よりも甘いものもありますね。

石川)そうです。
たとえば、乾燥キノコやお茶は、日本よりも甘くなっています。
お茶の葉には、これだけのセシウムがあっても、お茶自体にはセシウムはすべて溶け出しませんし、
また、乾燥キノコなども、国民が食べる量は限られている。
その代り、水や主食のパン、牛乳、ジャガイモなどは、大変厳しい値になっています。
国民の、食生活の実態に合わせて、細かく基準を定めているのです。

吉井)なぜ、日本とベラルーシの基準値が、こんなに違うのですか。

石川)ベラルーシの基準値の考え方は、内部被爆・外部被爆併せて、1ミリシーベルトを超えない、という基本方針から、それぞれの食品の基準が定められています。
一方、日本の場合も、平常時は1ミリシーベルトが基準でしたが、
福島第一原発の事故を受けて、現在は、事故後の緊急状況であるとして、
暫定基準を定めるときに、5ミリシーベルトまでは許容しようと、食品に対する考え方を緩めたわけです。
しかも、5ミリシーベルトの中には、放射性セシウムとストロンチウムによる被ばくのみです。
ヨウ素などは別枠です。
5ミリシーベルトと1ミリシーベルトという、基本方針の違いが、基準値の差となって現れています。




ただ、厚生労働省では、もしも暫定基準値の値の食物を食べ続けた場合に、5ミリシーベルトになる、という値であり、
実際の内部被ばくの値は、はるかに小さくなり、健康には影響は無いとしています。
また現在は、事故後の緊急時であり、あまり厳しい値を定めることは、被災地の農業や水産業を破壊することになりかねず、安全と経済のバランスを取ることが必要だ、としています。

いずれにしても、あくまで緊急時であり、平時の1ミリシーベルトに戻さなければならないでしょうし、
日本の食生活に合わせた、さらに細かな基準づくり、というものが必要になってくるでしょう。

吉井)ベラルーシでは、厳しい基準の他に、放射能汚染から住民、特に子供を守るために、どのような措置を取っているのでしょうか

石川)まず、セシウムを食物から除去する、具体的な方策を住民に教えています。
料理方法によって、セシウムを食物から簡単に除去できるといいます。
ネステレンコ所長によりますと、魚と肉については、塩と酢入りの水に2時間くらいつけておいて、
その水を流し、肉や魚を洗い、もう一度同じ措置を繰り返します。
このようにして、最低でも、30~40%の放射性核種は出て行きます。
肉や魚を煮る場合は、最初の煮汁は流して、二番目の煮汁を利用するように、とのことです。




また、セシウムはカリウムと似ているため、セシウムの吸収を防ぐためには、カリウムを十分摂取していることが必要だ、としています。
例えば、子供にはカカオを飲ませます。
カリウムがたくさん含まれているからです。
バナナもたくさんのカリウムを含んでいます。
それから、ジャガイモですと、オーブンで焼いた皮つきのジャガイモにも、たくさんのカリウムが含まれています。




それから、セシウムが体に入ったとしても、セシウムを体外に排出する方法も研究しています。

吉井)どんな方法ですか。

石川)果物などの細胞に含まれる、植物繊維の一種ペクチンが、セシウムの除去に効果があることが、この研究所の調査で分かっています。
野菜や果物、一般に含まれていますが、特にリンゴにたくさん含まれています。
ただ、そのまま食べるのではなく、フレッシュジュースにすれば良い、と助言しています。
リンゴだけでなく、他の果物、そして野菜もおろしてフレッシュジュースにすれば、ペクチンがたくさん含まれ、セシウムの除去に有効だ、ということです。
研究所では、リンゴのペクチンを大量に含んだ錠剤も開発し、学校などで、子供たちが服用しているということです。




吉井)ベラルーシでは、いろんな努力をして、放射性セシウムなど、放射性物質から子供たちを守ろうとしているのですね。
日本でも、こうしたことは可能でしょうか。

石川)食生活で言えば、ベラルーシと日本は異なるわけですから、日本に合わせた基準を作れば良い。
主食のコメなどは厳しくするとか、日本に合わせた基準が必要でしょう。
また、食品の検査についても、今は一品一品時間をかけて、検査する方法ですが、
日本の高度な技術を使えば、流れ作業のような形で検査するシステムが、開発可能だという提言も出ています。

東大アイソトープセンター長 児玉龍彦教授
「流れ作業的に沢山やれるようにして、その中で、はねるものをどんどん、イメージで、画像上で、これが高いと出たらはねていくような仕組みを、これは既存の技術ですぐできますものです。そういうものを、全力を上げてやっていただきたい、と思っております」

日本の高度な技術を、食品管理に活かすということです。
ベラルーシは、国家予算の二割が、チェルノブイリ事故の対策に費やされています。
ベラルーシに比べますと、日本は国家予算で100倍、という大国です。
ベラルーシの国家予算の二割というのは1200億円ほどで、日本の国家予算にすれば0.1パーセントほどの額です。
後は、国民の健康と安全を守る、という政治的意思が、日本政府にあるかどうかということだ、と思うのです。
ベラルーシなどで何が起きて、どのような対策が取られたのか、
日本の今後を考える上でも、今度は我々が、ベラルーシなどから学ばなければなりません。



開発可能な放射線量検査システム、設置可能な放射性物質除去装置、支払い可能な国民の健康と安全を守る費用。
日本はそういうのん、余裕で持ってる国と違たん?
しっかりしてて、高度な科学技術や建設技術をもってて、災害とか事故とかで大変なことになってるとこがあったら、真っ先に援助の手やらお金やらを差し延べる国と違たん?

それやのに、なにを考えてんのか、汚染された水飲んだり、ご飯食べたり、ほうれん草食べたり……、
前まではバレんかったヤラセのなんちゃら会とかを、今までの癖でやってしもてすっかりバレたり……、
そんなことしていったい、誰が助かるん?
あんたらが、普通に、マスク無しで息してても大丈夫なとこで、たったの一回、それもほんまに汚染されてんのかどうかもわからんもん、口にすることに、いったいなんの意味あるん?
こんなことになった後でも、今だに金さえちらつかせたらなんとかなるっていう、そのクソ汚らしい常識はもう、死ぬまで直らんの?
下品で阿呆で恥ずかしい、野蛮で暴力的で無責任。
こんなんばっかが上に立ってるってわかった、ほんで、そんな連中を、誰も引きずり降ろせんこともわかった7ヶ月半やったわ。

上記に書かれてある、ベラルーシ流の、放射性物質を食物から除去する方法が正確で可能なことかどうか、それはわたしにはわからんけど、
こんなクソでアホでウソつきの政府が厚かましい顔して居残ってる限り、各家の親が、各家の子どもを、ほんでもちろん親自身のために、できることしていかなあかん。
政府がアホでウソつきやったもんで……。
そんな死に方だけはいややろ?かなんやろ?子どもにそんな理由で、辛い病気にかからせとうないやろ?
現実をそろそろ認めような。
闘えへんもんがあるってことを認めような。
今までの人生は確かに素晴らしかったけど、それが無くなるからっていうて、人生まで無くならへんと思える勇気を持とうな。
放射能は人だけやのうて、町を、森を、海を、畑を、田んぼを、動物を、みんなみんな容赦なく襲う。破壊する。
音も、色も、匂いも、姿形も無いけど、その破壊力の強さいうたらものすごい。
知らんふりしてたい。無かったことにしてたい。
命と引き換えに、めちゃくちゃ辛い症状と引き換えに、今までの暮らしをどうしても続けたいと腹括った人以外は、放射能が少ないとこに行って!
腹括った人は、自分が居残ることで、他の人が巻き添え喰うようなことだけはせんといて。

これだけは忘れたらあかんで。
もう二度と、元の日本には戻らへんねん。
日本だけちゃう。世界もや。
あの事故は、この地球っちゅう惑星を、元の世界に戻れんようにしてしもた。
新しい、放射能汚染を抱えた島に暮らす以上、しっかり足踏ん張って、ふにゃふにゃしてんと、振り返ってばっかりおらんと、
あの時の大人達が頑張ってくれたから今の日本があるんやなあと、未来の子ども達に褒めてもらえるように、阿呆どもをやっつけたろうな!
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南相馬に今も暮らす人達の、原発事故後の日常

2011年11月01日 | 日本とわたし


『死の地域に生きる 原発事故後の日常』フィリップ・アブレシュ監督西ドイツ放送(WDR、Westdeutscher Rundfunk):本部ケルン
2011年10月18日放送 

福島原発周辺の汚染地域に行きたいと思う人はいない。
それでも行かなければならない場合……このような防護が必要だ。
彼らが汚染地域に行くのは、そこにまだ人が住んでいるから。
年寄り、若者、赤ん坊、みんな援助を必要としている。
緊急に。
 

お米、麺類、食用油、飲み水、三浦万尚さんは避難区域の世話を続けている。
私達は、南相馬の彼の事務所を訪ねた。
ここで三浦さんは、避難区域での救援計画を立てる。
老人や一人暮らしの人々に、食料を届けるため。

この日台風が接近して、空は陰鬱だ。
原発事故以来、雨は危険である。
「雨の日には、被ばくする危険が高まります。
雨水の中には放射性物質が溜まっていますので、肌が雨に濡れるとガンマ線を吸収します。
ですから、雨に当たらないようにしなければなりません」


HCR="ハート・ケア・レスキュー" "心の救護者"と、三浦万尚さんはこの組織を名付けた。
我々は一週間、三浦僧侶と行動を共にし、南相馬市でも人々の日常を追った。

福島原発からは20キロしか離れていない南相馬市は、原発事故のどん底にある。
羽田マサハルさんを訪ねる。
原発に最も近い家に住んでいる人だ。
三浦さんはまず家を一周して、線量を確認する。
雨水が溜まる場所は、明らかに線量が高い。
「ものすごく高い線量ではありませんが、ここに住み続けるには高過ぎます。羽田さんは一刻も早く避難して、賠償金をもらうべきです」
羽田さんは絶望している。
繰り返し家の除染を試みてきた。
屋根も洗ったし、庭の土も取り除いた。
木の幹まで洗って、線量は数週間下がっていたが、再び上がり始めたのだ。

「なぜ逃げないかって?
私の家族は千年もここに住み続けてきました。逃げるわけにはいきません。死ぬまでここに留まらねば……」
「やるせないです。ここの人々は、土地との精神的な絆が深いのです。早く逃げなければいけないのに逃げられないジレンマがあるのですね」
庭で出来た果物は、今では特別ゴミである。
三浦僧侶はこの果物を、羽田さんが使っている湧き水と一緒に、測定所で検査してもらうことにした。
役人は「大丈夫」という結果を出したが、三浦さんは信じない。
実は、羽田さんは東電に務めていた。
事故の起きた時は、原発内にいたのだ。
「3号基の爆発は、普通のものではありません。ウランとプルトニウムが核分裂を起こして、すべてを吹き飛ばした。
でも、誰も測定を行いません。政府が望んでいないのでしょう。嘘をついているのは東電だけではない、国も真実を隠しています」

本当に、ウランとプルトニウムの核分裂による爆発ならば、原爆のようなものである。


クサク・アユミさんにとっても、雨は嬉しいものではない。
これから子どもを、学校に連れて行かなければならないのだ。
この若い一家は、舅の家で避難生活をしている。
自分の家は汚染されてしまったから。
「事故以来、生活は完全に変わってしまいました。特に子どものストレスは大変です。
外ではもう遊べないので、いつも家の中にいます。
長袖の上にさらに、ジャケットを着なければいけません。夏もです」
アユミさんは、毎朝車で、子どもを学校に送る。
雨の日には、子ども達は、校舎まで走らねばならない。
濡れるのが恐いから。
他の子ども達は、町中から、バスで登校する。
この一校だけが、津波と原発事故を生き延びた。

今日は、生徒達に、線量計が配布された。
線量計は、ずっと保護者の求めてきたものだが、配布する教師の心は重い。
「この線量計は嬉しくないのです。生徒達は実験台にされるのです。
現在の線量を表示するわけではなく、データを保存するだけです。
警報を出して逃げさせてくれるような線量計なら、ずっと良かったのに……」

久保木先生は、子ども達に、気をつけて線量計を扱うように説明する。
寝る時につぶさないように。
服を洗濯する時、ポケットから出すように。
線量計に縛られた子ども時代。
「放射能はそれほど恐くないけど、線量計をなくして怒られるのが恐いです。気をつけます」


小林サダオ校長も、新しく測定器を入手して、毎朝線量を測定している。
校庭は、大掛かりな除染を行ったばかりだ。
汚染された砂を取り除いて、2メートルの深さに埋め、線量は下がった。
「専門家が来て除染を行いました。教員や保護者も手伝いました。
しかし、どうやって被ばくから身を守るかわかりませんから、汚染された埃をずいぶん吸い込んでしまいました。
自殺行為だと思います」


小林校長は、学校の屋根に案内してくれた。
ここでは、空間線量から身を守らなければならない。
津波の襲った3月11日の様子を説明してくれた。
「津波は、あの松くらいの高さでした。
巨大な黒い波が、瓦礫を押し流してきて、ちょうど学校の壁の前で止まりました」
津波の傷跡。
瓦礫は、アスベスト、ダイオキシン、そしてセシウムに汚染されている。
被災した沿岸一帯2千6百万トンの残された瓦礫を、どこに運んだらいいのか……通常の百年分の量である。


津波の襲った日に人生が変わったのは、菅原マサキさんと青田カツヒロさんも同じだ。
二人は、昔からのサーファー友達。
福島県の海岸は、かつてはサーファー天国だった。
週に二、三回、二人はここで波乗りをした。
「福島はサーフィンにもってこいだったのに、津波後は、いい波が来なくなりました。地震で海底が変わったのでしょう」

3月11日は、菅原さんにとって、生涯忘れることが出来ない日となった。
彼の愛してきた波に、両親を奪われたのだ。
「両親は津波にさらわれました。
兄は仕事から大急ぎで帰ってきたのですが、家は消えていました。
両親の消息を尋ね続け、二週間後に遺体が発見されました」
南相馬では、サーフィンはとっくに禁止されている。
砂も所々、セシウムに汚染されている。
それでも時々、誘惑に負けて、海に入るサーファーがいる。


食料を買い出しするタサク・アユミさん。
買わなければいけないものは沢山ある。
オレンジは安心。福島産ではない。
原発事故以来、買い物には気を遣っている。
「福島産を買うのはためらいます。子どものためには、この地方の物は避けたいです」

店主の大津ケイイチさんは、事故後、品揃えをすべて変えた。
九州産の野菜や、北海道産のきゅうり、福島産は、検査済みの桃だけだ。
店長は、二日ごとに、セシウム汚染値を入手する。
「年寄りの方はそれほどでもないですが、若い方は気にされています。
食品が検査されているか、よく聞かれます」
汚染値ゼロ保証の新鮮豚肉。
一つ一つのパックに、安全シールを貼ってから冷蔵室へ、
いずれにせよ、福島産の食品は、南相馬よりも他県での方が売れる、と店主は言う。
「福島から遠い所の人ほど、あまり深く考えていません。
東京では、福島産の食品はよく売れます。福島を応援しようと言うのです。
ここではみんな、放射能の恐ろしさをよく知っていますから、福島産の食品を買うお客さんはほとんどいません」

原発廃墟からわずか20キロのこの土地の方が、むしろアユミさんにとっては安心して買い物が出来るというわけだ。


学校の昼休み。
今までと違って、子ども達は、毎日教室を掃除しなければならない。
福島原発からは、今でも放射能が流出を続け、極めて危険な放射性物質が町に降り続けている。
掃除は効果がある、と言われているのだ。手を洗うことも。


この子にとっては、今日が最後の登校日。
家族が南相馬から避難することになった。
もう帰ってくることはない。
「悲しんじゃだめ。一番のお友達ももう、山形に引っ越したでしょ。大丈夫」
「放射能から身を守るために引っ越す家族もありますが、別の苦労が待ち受けてます。
"福島から来た"というイジメが多く、それで精神科にかかった母親もいます」
子ども達は、お別れ会を催した。
「椅子とりゲームをしようか?」
「それとも、歌とかダンスがいい?」
"忘れないでね" "友達でいようね" という寄せ書き。
「もう、クラスの子も、たくさんいなくなりました。
ゆき、りょうご、みつる、ひかり、夏休みの間にいなくなりました。黙って行ってしまいました。
原発事故がなかったら、みんな一緒に外で遊べたのに


常に心配しながら生活することで、心が壊れてしまうと、三浦万尚さんは言う。
町を出て行く者もいるし、残っても、人が変わる者もいる。
食べるのを拒んだり、アルコールに溺れるようになったり、自殺する者もいる。
福島だけでも、震災後、70人が自殺をしている。

「基地に響く海鳴りが、まるで死者の声に思えます。
助けを呼んでいるようです。
私達はもっと、団結しなければなりません。
そして、放射能の恐ろしさをよく説明しなければ、本当の幸せは訪れません」


市立病院に来たアユミさん。
子ども達の内部被ばくを調べる、ホールボディカウンターを受けるのだ。
「検査は大切だと思いますが、やっぱり落ち着きません。
結果が怖い、でも、本当のことも知りたい。複雑な気持ちです」

事故以来、医者や看護士は、出来高払いで働いている。
南相馬の子ども達75人は全員、年に一回検査を受けることになったのだ。
「難しい説明をしなくても、ほとんどの子どもはすぐに、何を行うのかわかるようですが、不安な気持ちはあまり言葉にしません。
隠している子が多いのだと思います」

三台のホールボディカウンターは、絶え間なく動いている。
骨に溜まったセシウムや、甲状腺のヨウ素などの、微妙な放射性核種がスキャンされる。

福島市では、すでに結果が出ている。
子ども達の二人に一人から、セシウムが発見された。
今後、小児がんが増加することを、多くの保護者が恐れている。
妊娠五ヶ月のこの看護士も、不安に思っている。
「今のところみんな、心配する必要はありませんが、5年後10年後はわかりません。
いつか、避難しなかったことを、後悔する日が来るかもしれません」


それでもしかし、生活は、楽しいものでありえるのだ……。
我々は翌日、南相馬のゴルフ場に出かけた。
最近、再開されたばかりなのだ。
オーナーの福躍好勝氏が案内をしてくれる。
原発事故前、この松は、まだ瑞々しい青色をしていたそうだ。
今は枯れ、死んでしまっている。

線量は、毎時1マイクロシーベルト。プレイ中、レントゲンと同量の被ばくを受けることになる。
「原発事故後の変化といえば、南コースの汚染が激しかったこと。
丘の上に、放射能雲が留まったからです。
この部分の閉鎖を検討中です。ゴルフには危険過ぎます」
鹿島カントリークラブの会員は4千人。
そのうち20人が、津波で亡くなった。
残りのメンバーは、再び、定期的にゴルフ場を訪れている。
チェック模様で汚染芝生に立つ。
「心配ですが、何も変えられませんし、気にしてばかりいるほうが、ストレスになります」

福躍氏は本当は、ゴルフ場再開に反対だった。
弁護士も、未知の危険があるから止めるように忠告した。
念のため、毎日線量を表示することにしている。
「私達には、お客さまの健康が、一番大切です。
20年後に、どなたかがガンになる原因にはなりたくありませんから、どんな状態のゴルフ場かお知らせし、ご自分で判断していただきたいです」


三浦万尚さんは、とっくに次の仕事に向かっている。
南相馬の端にある新興住宅地。二人の子どもがいる若い家族の家だ。
この場所の一年間の被ばく量は、ドイツの原発作業員の3倍だ。
三浦さんは、その状況を改善させたい。
「今日、どこまで行くかわかりませんが、屋根をまず除染、それから家の壁、ベランダ、そして玄関前のコンクリート」
家族は除染作業を気味悪がり、事前に避難した。
けれど、近所の人は逃げず、興味深そうに見に来た。
自分の家の除染をしたいと思っているのだ。
「前もって電話で、危険を知らされました。
けれどもびっくりです。こんなすごい防護服で来るとは思ってもいませんでした」
マスクをもらい、屋内に留まるようアドヴァイスを受ける。
三浦さんチームは、警告シールを貼って、"死の仕事"の準備を整えた。
キャップ、マスク、そして防護服、この装備で、三浦さんは、家を放射能から解放するのだ。

大げさだと言う人もいる。
「家の除染?考えてません」
「手を良く洗って、うがいをすればいい」

南相馬は、段階的に除染されていく予定だ。
学校、道路、そして個人宅。
それは危険な上に、終わりのない計画である。
冬になれば山おろしが再び、放射性物質を住宅街に運んでくるからだ。



たまにはすべて忘れてリラックス。
あゆみさんは、この日を楽しみにしていた。
初めて、赤ちゃん体操に参加したのだ。
「すごく安心しました。赤ちゃんのいる家は、ほとんど無いと思っていましたから。外ではほとんど見かけません。
でも、他にもたくさんいるのを見て嬉しかったです」

お母さん達に呼びかけたのは、宮原けい子さんだ。
3月11日の震災以来、助産婦の宮原さんは、若い家族のケアに専心している。
週に一度集まって、母子体操を主催。
「どんな話でもします。
例えば、散歩の時には木に近づいてはダメですとか、放射性物質がたくさんついているから、
外出しないわけにはいきませんが、気をつけなければいけないことがあります

市の行政は、なるべく沢山の若い家族が町に戻ってくるように呼びかけている。
しかし、あゆみさん達は、母親の不安が、まともに相手にされていないと感じている。
「食べ物も水も、安全だと言いますが、信じられません。心配です」
「避難した方がいいのかもしれませんが、夫が大丈夫だと言うので……一人で逃げるわけにはいきませんでした」
「こんなことを後どれくらい続くのか知りたいです。いつになったらまた元通りになるのか情報が欲しいです」



菅原マサキさんも、今日は海でリラックスをするつもりだ。
両親を失った息子にとってサーフィンは、セラピーのようなものだ。
「津波に父と母を奪われましたから、海が怖いということもありますが、けれど海は偉大ですし、海を友達にしたいと思います。
きれいな海を見ると、心がすこし癒されます」
菅原さんが選んだ海は、よりによって東海村。
サーフ場は、福島原発から100キロ南にあり、波乗りが許可されているのはこの場所からなのだ。
3月11日以来、初めてサーフボードに乗る菅原さん。
サーファーにとっての日常への回帰は、太平洋の冷たい波から始まる……。
「また南相馬でサーフィンをしたいと心から思います。原発事故が収束してくれることを願ってやみません。
故郷でまた、不安の無い生活がしたいです」


不安の無い生活……あゆみさんも望んでいるものだ。
今日は郵便が届いた。
ホールボディカウンターの結果。
息子達は健康だろうか?
「大丈夫でした。でも、弟の方が少し値が高いようです。でも、基準値以下で安心しました」
病院は『無害』と書いてきた。
子どもの被ばく量は心配するものではないと。
福島事故による被ばくは、レントゲン検査が一回増えただけのようなものだ、と医者は言うのだ。


南相馬の週末。
町はロックコンサートを催した。
人々が、毎日の不安を忘れ、楽しめるように。
短い間でも。
「いつも家にばかりいて、他の人に会うことがほとんどありません。すごく楽しいです」

南相馬の市長も参加して、市民を守る約束をした。
しかしどうやって?
三浦万尚さんは懐疑的だ。
「市長は、人々の味方のように振る舞っていますが、何も行いません。
子ども達の検査もひどいものです。もっと正確に行わなければいけません。
ここでは誰もマスクをしていません。何も問題が無いかのように見せたいからです」

三浦さんはマスクを配った。
人々に危険を教える義務を感じているのだ。
しかし、主催者に、パニックをふりまくなと抗議される。

せっかくの晴れた楽しい日なのにと……。
人々が熱望しているのは、原発事故の無かった福島なのだ。
以前のような、ごく普通の生活だ。
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