ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

あけましてあべだとう!

2014年01月15日 | 日本とわたし
晴さんが連れてってくれた官邸前のデモ(1/10/2014)の最中に、手渡してもらった用紙より

一陽来復

陰の極まる冬至には、陽の気がひとつ、すでにまた巡り来ている。
人の世でも、悪い事の重なった後、必ず善い事がやってくる。
『来福』は、幸福願う掛け詞。
福島、沖縄の人々と分かちあう、本物の幸福を招く合い言葉は、

あけましてあべだとう

2011年9月11日から始まった、泊まり込みの経産省前テント。
ヒバク被害に人も獣もない。
スズメの座り込みも増えて、3度目の越冬が始まってます。

テント裁判での私の陳述書。
自己紹介&近況報告&念頭抱負にかえて、テント仲間・デモ仲間・この世で縁ある全ての皆様への恭賀の辞として、お受け取り願います。
(今年からしばらく年賀状はお休みします)。
自分でウンザリするほど文章がダメなので、それでも伝えたい希望の灯、人としての義侠の道に生きる、名も無き仲間たちの姿を、映像でお知らせしてきました。
国会はファシストに占領され、廃墟と化しましたが、民衆自身の運動は成長を続けています。
また、DVDでお伝えしますが、私がその一人、あなたがその一人、今年も共に歩みましょう!

2014年・正月 S.


2013年9月11日

陳述書

東京地方裁判所
民事第37部

御中

平成25年(ワ)第8000号事件に於いて撤去が請求されている、経産省前脱原発テントと私の関係について、以下のとおり陳述します。

住所 東京都新宿区
氏名 澤田



私は、経産省前テントに2011年の当初から参加している男性です。
福島に『東京原発』を押しつけてきた東京都民であり、幾世代もの子々孫々にヒバクを強い、核のゴミを残す日本国民であり、
草や木や虫や鳥や牛や魚や、生きとし生けるものの世界を汚染させてしまった人類の一人です。

自分と社会との関わりを問い、自身の加害者性に気づき、大人としての責任を果たそうとして、経産省の前に2年間も座り続ける人々こそ、日本の良心であり、民主主義の実践者たちです。

原発推進の司令塔である経産省は、その安全管理の責任官庁でした。
福島原発事故の加害者である経産省が、被害者である私たち国民に対して、訴訟を起こしました。
『土地明け渡し』という形式的な口実と、個人2名に巨額の金銭を請求することで、脱原発=民の声を封じ込めようとする経産省の姿勢には、原発事故責任の反省の欠片もありません。
だからこそ、脱原発テントは、他のどこでもなく、経産省のど真ん前になければならないのです。

2011年9月11日以来、経産省の一角、それほど広くもない国有地が、国民の共有地として生き生きと活用され、
創意工夫して飾り付けされたテントの前をちょっと行き交うだけでも、人の心は温まります。

テントは、誰を傷つけることもなく、歩道を含めてこまめに清掃され、全国から訪れる老若男女が語り合い、知恵を出し合って、能動的な世論の形成に寄与しています。
裁判所に働く皆さんも、目と鼻の先のご近所なのですから、ぜひお立ち寄りください。
実際、経産省の人をはじめ、各省庁にお務めの方々も、通りすがりに声をかけてくれます。
核とヒバクという問題は、右も左も、人も獣もない問題で、最近は、雀の母子も座り込みに加わっています。
 
2012年3月までの半年ほど、自営業であった私は、3日に1度は時間をつくってテントを訪れ、座り込みに参加し、その様子をビデオに撮って友人に知らせたりしていました。
運営や泊まり込みの役割分担を引き受ける余力はなくて、野次馬のような参加ですが、
各々が自分にできることを自主的にする、その集積が、脱原発テント広場であり、私も間違いなく、当裁判の当事者としての権利を有しています。

テントでは、福島の原発被災者のお話を、直接に具体的に伺うことができました。
世界中から訪れる人々と意見を交換することも、貴重な体験です。
万人に開かれた〈ひろば〉が、24時間オープンされているから可能なのです。
時には、原発賛成の人も来ます。
その中には、騒ぎを起こすことだけが目的らしく、はじめから対話を拒み、暴力と破壊行為に終始する人たちがいます。
それに対して、人間的に対応してテントを守るには、大変な覚悟と忍耐を要します。
嵐も吹雪もありました。
病気もします。
様々な困難にもかかわらず、昼夜のテント座り込みを続けて来なければならなかったのは何故なのでしょう。
現国会議員の山本太郎さんが、経産省包囲行動の際になさったスピーチが、テントを守る人々のエネルギーの根拠を、こう言い表しています(2011年11月11日)。

「テントに警察と右翼団体が押し寄せたとしても、この気持ちは変わらない。
自分自身も生きていたい。
子どもたちも生きていたい。
子どもの未来を守りたい。
今日ここで警備をされている警察官の皆さんにも、この経産省のビルの中で働いている皆さんにも生きていてほしい。
そのためには、原発を止めないといけないんです。
そうしないと、日本の未来は無いと思います」

現在、私は、仕事の都合から、週に一度しかテントに行けなくなっています。
そうなって初めて、痛感していることがあります。
仕事に追われて、社会的活動、政治的抵抗が、ままならない日本の勤労者の大半にとってこそ、テントひろばが必要だということです。

様々な人間が、少しずつの努力、微力を持ち寄ることで、日本と世界の命運を左右する、政治的表現を実現しているのがテントひろばです。

「テントは私の第二のふるさと。なくさないで下さい」という痛切な思いは、福島の女性だけのものではありません。
行政の無責任と横暴に対しての、裁判所ー司法の良識に期待します。

尚、この陳述の内容を補うために、戦術したビデオ映像を提出する用意があります。
テント設営からの2年間。
テントのありんままをご覧いただけます。

以上


旅の最後に、毎週金曜日に行われている、官邸前のデモに参加すべく、東京に向かった。
ツィッターでぼそっと「官邸前に行こうと思う」とつぶやいたら、晴さんから、なんともありがたいメールが送られてきた。

「一緒に行きましょう。
なんだったらうちに泊まって。久しぶりに蕎麦を打ちましょう」

いやもう、どないかしていつか逢いたい、できたら早く逢いたいと思い続けてた家族なのである。
黒森庵という、それはそれはすてきなお蕎麦屋さんをやっていた、蕎麦打ち職人の晴さんと、黒い森の子リスと呼ばれている5人の子どもたち。
原発事故後、食材の安全を保証できないままに、お客さまに料理を食べていただくわけにはいかないと、営業を停止し続けてはる。
5人の子どもたちはそれぞれに、現世を卒業されたお母さんの魅力を受け継いだ、優しくて、好奇心が旺盛で、曲がったことが大嫌いなすてきな人たち。

だから、家族みんなで脱原発!

東京までの新幹線。いつものように、富士山の見える側の窓際に座る。今回は残念ながら、分厚い雲の帽子を被ってた。


晴さんに、最寄りの駅まで迎えに来てもらい、子リスちゃんたちが待ってくれてる家に向かう。
ああもう、めっちゃ嬉しい!

子リスちゃんたちが作ってくれたスィーツや、焼きたてのパンをいただきながら、しゃべるしゃべるしゃべる!

時間が来て、さあ出発!


まずはぐるりと一周、晴さんに教えてもらいながら、デモの様子を見せてもらう。






やっぱ、デモでも楽しくやりたいよね~と、晴さんがおっ始めたチャリデモ。思いはそれぞれ違うかもしれないけれども、仲間がうんと増えた。


スピーチ広場。例の「再稼働反対!」の連呼が続いた場所。


その反対側の角に集まる人々。


二郎さ~ん、明日香ちゃ~ん、来たよ~!けど、見つかったらスピーチせぃ~とか言われるに決まってるから、徹底的に隠れるよ~ん!


あ、明日香ちゃんや!いつものごとく、うまいなあ、スピーチが。


うわ、火炎瓶テツさんの生声!これまた心にガツガツと食い込む、すばらしいスピーチ!


再び今度は、子リスちゃんに案内してもらって、歩いてデモ見学。


『かくめい(革命)喫茶』


三女リスちゃんのピカピカコスチューム!
可愛いったらないけど、目立ちまくる彼女の横で居たせいで、二郎さんにすっかり見つかってしもうた。


そしてスピーチ台に……じぇんじぇん考えてなかったから、もうグダグダで、しかも途中で経験したことがないような頭痛に襲われ撃沈……ずぶずぶずぶ。
あの頭痛はいったいなんやったんやろう……おっきな金槌持った妖精に囲まれて、ガツンガツンと交互に殴られてたみたいな感じ。

核の無い、戦争の無い、原発の無い世界の実現を祈って。










暗闇の中の元国会。今はただの悪党の箱。


しずみんの心意気。


チャリデモ終了。こんな寒い夜にありがとう!


ニンジンさんだって再稼働反対!



今回の、去年の末から2週間かけての日本滞在中、ネットから完全に離れてた。
そしたらもう、日本は全く、3.11以前のそれと全く変わりのない、それどころか、6年後のオリンピックを楽しみにしてたりする、
まあまあ安全で、まあまあ暮らせて、まあまあ便利で、まあまあやっていける、原発事故を適当に隠し続けてこられてたそれまでの日本に思えた。

テレビのつまらん騒がしい番組はもちろん、ニュースでさえも、わたしが気になってることはついに、ほとんど話題にのぼってこんかった。

いったいなんなんやろう、このワンダーランドっぷりは。
恐いほどに現実を、事実を無視しようとする、積極的な態度は。

いや、でも……わたし自身、この旅行中、そういう日本に甘えた。
普段なら、絶対に口にせんような物を食べた。
もちろん、旅行中に変な雰囲気にならんよう、せっかくの、久しぶりの、母との時間を互いに楽しめるよう、いつもなら断ることも受け入れた。

こんな、国全体が不思議の国と化した日本で、現実をきちんと見つめ、これまでのように生きながら、歩こうとしてた道の変更を決意し、実際に歩き出す力と勇気の量を思う。

2014年のデモ初日。
こんな寒い日に、これだけの人が集まった。
けども、日本全体から考えたら、いったいこれだけの人は何割になるのやろか。
世界は、全体の5%が動けば変わる。
5%の実現は、この年叶うのやろか。

あけましてあべだとう!
あけましてたびだとう!
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長崎の愛と海と山に包まれて

2014年01月15日 | 家族とわたし
上六の弟んちから名古屋へ。
母と義父とわたし、3人の長崎旅行が翌日から始まる。
この帰郷旅行を決めた時、とにかく今年こそは、お正月っちゅうもんをゆっくり味わいたいと思てた。
それで、母の家でダラダラと、母と一緒に過ごそうと考えたんやけど、母が母だけに、わたしが思てるダラダラはかなり叶いにくいと思たので、
煮詰まってしまう前の気晴らしに、ちょっと軽く映画とかを一緒に観たりせえへんか?と、母に提案した。
母はそれを、いったいどうやって勘違いしたんかわからんのやけど、いきなり『長崎に決めました!』と書かれたメールが送られてきた。
え?長崎?長崎ってあの、九州の長崎?
ぶったまげたけど、長崎にはいっぺんも行ったことが無かったから、もちろん大喜びで参加させてもらうことにした。

母はいつものごとく、わたしが着いた日からすでに体調がよろしくなく、浜松から戻ってきた時には風邪までひいて、
こんなんで長崎のツアー旅行なんか行けるんかいな……と、そばにいるもんはヒヤヒヤ。
ほんまは、朝6時45分の、名古屋駅集合に合わせて、三重県の田舎町の真っ暗な通りを歩いて、JRの無人駅まで行くつもりやったけれども、
いくらなんでもそれはあんまりやというので、タクシーを予約しようとしたら、そんな時間はまだ営業してませんと、どこの会社にも断られ、
もうそしたらしゃあないからと、母が急きょ、駅前の東横インに予約を入れて、前日の晩から泊まることになった。

そろそろ夜明けの名古屋駅。


集合場所には、他のツアー客もいて、とんでもない混雑っぷり!


無事新幹線に乗る。


京都の手前で日の出。


五重の塔が見えた。


なんちゃら球場も見えた。


無事に博多に到着。


そこからはバスで。ガイドさんのほのかちゃんは、まだ23才の若者。けどもすんげ~上手。


九州の沿岸に通天閣?!


虹の松原に到着。


暖かくて、コート無しでもオッケーっぽい。


5キロメートルに渡って延々と続く松原。


その近くにあるおこし屋さん。




おこしを作ってる。


サイダーとぼんたん?


寝ぼけ耳で聞いたから、もしかしたら間違うてるかもしれんけど、伊賀の上野城となんか関連があるっぽい平戸城。


派手にブンブン振り回されてたイカさんたち。おっちゃんの顔もクラクラ。


橋フェチにはたまらん。


ここまではっきりきっぱり描かれた、女性トイレの表示は見たことがない。


さあ、母ちゃんの腕をしっかり支えて、上るぞぉ~!


平戸ザビエル記念教会が、奥にチラッと見えてきた。


母ちゃん、ボチボチ上って行こな。


着いた。


うす緑の柔らかい色が優しい。


フランシスコ・ザビエルさん、やっと来ました。


中は撮ったらあかん言われても……。


山と川と海の町。


昔、町の人たちは、抜けた歯を、このソテツの木の枝に金槌で打ち込んだらしい。


樹齢400年の見事なソテツ。


六角の井戸。


一度にたくさんの人が水を汲めるように、というアイディアで作られたそうな。




坂道や階段がそこら中に。ここで暮らしてるだけで足腰が鍛えられるはず。


フランシスコ・ザビエルさんが指差すのは……。


平戸温泉のお湯は、ぬるぬるとしてる。


ストッキングなんか履いてこんかったらよかった……。


これまでいろんなソフトクリームを見てきたけど、ワカメ味は初めて!


お土産屋さんの天井には、見事な梁が……なんも買わんと写真だけ撮って出ていくイヤ~な客。


雲が違う。


旅館の大部屋で夕食をいただいてると、突如始まった中国の子どもたちの格技。
  

  



ただただびっくりしながら観させてもろたけど、写真を後で確認したら、なんとまあ、こんなちっちゃい子まで……。
半年の契約で、違うグループが入れ替わりにやって来ると、旅館の人は言うてはったけど、そんな長い間居て、学校とかどないしてるんやろか……。
わたしらは、すごいすごい~とか言うて、喜んでてええんやろか……。

部屋から見えた夕焼け。


二日目は平戸から出て、九十九島を見学し、それから有田に寄って長崎市内、そこから雲仙に移動する。


バスの中から見えた、超~老舗のお醤油屋さん。


日本の川って、なんか好き。


九十九島見学。


船にもしめ縄。


自然のまんま残されてる海と島は、それはそれは穏やか。


船の窓越しに撮った、ちょいとボケ気味の島の写真(これでもかなり数を削った)。
















義父もパシャパシャと撮ってたけども、母の思い通りに撮れんくて、さんざん文句を言われてた。
ほな自分で撮ったらええやんか!と、珍しく途中放棄。
この母の、何でもかんでも自分の思い通りにならんと気が済まん、ほんでガンガン責めてくる気質は、年々強力になってきた。
悪い人ではないのやけどなあ……。
愛情も深いし、慈しむ心も持ってはいるのに、それを表す術を知らんというか、得意ではない。
ずっと自分を責めてきたし、愛してあげんかったから、人のことも責めるし、どうしたら愛情を示せるのかわからんまんま年を取った。

最近、何本もの奇妙な飛行機雲を見たら、ケムトレイルか?と疑ってしまう。


ここにもこんな、米軍の表示が。


バスの窓の向こうのだんだん畑。






けっこう急な坂道。
両側のお店からのお誘いには、一切乗らないで、ひたすらわたしの後をついてくるように、とガイドのほのかちゃんに言われ、
ちゃんと言うことを聞いて、ひたすら上った坂道。


大浦天主堂が目の前に。


天主堂に入る前に、もう少し上ってグラバー邸に。
えぇ~……まだ上るん~という声があちこちで聞こえた時、じゃ~ん!エスカレーター登場!
なにげに目立つふたり。


グラバー邸の庭からの展望。


蝶々夫人の銅像と、有名な『ある晴れた日に』のメロディの音符と同じ高さに設置された噴水。


トーマス・ブレーク・グラバー氏。
1838年~1911年
造船、採炭、製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献した人。
国産ビールの育ての親であり、キリンビールの前身となった『ジャパン・ブルワリ・カンパニー』を創立した人。
いやもう、全然知らんかったし……。


庭の海寄りのとこにある方位盤。人がせっせと写真撮ってるのに、堂々と手袋とカバンを置いてるのはどこのおばちゃんや?!(母です、はい)


海の方を眺めると、三菱の大型施設ばっか。
原発でかなり嫌気が差してたけれども、彼らの活躍が日本の繁栄を支えてきたことも事実なんやと、改めて思い知らされた。


こういう橋だってそう。
この橋が立ったことで、いろんな便利が生まれ、その代わりに、失ったものも少なくない。


♡ストーン伝説
このハートの敷石に触ったら恋が叶うんやそうな。
けっして鯉が釣れるんではありません。
他にも、2つ見つけたらええことがあるとか、いろんな説があるのやそうな。


キリンビールの商標の元になったこま犬。


グラバー邸から戻り、次の大聖堂に行くまでに、どうしても通り過ぎなあかんのがお土産屋さん。
けども、お祭りに実際に使てる山車や大蛇が飾ってあるとこも通るので、まあ良しとしよう。




大浦天主堂の前にある碑。


迫害を受けたキリシタンの当時の様子を、ガイドのほのかちゃんは何度も話してくれた。


長崎の町は、ほんまに坂道だらけ。




路面電車が走る町。


超~ピンぼけやけど、町のあちこちの沿道をきれいに飾る、真っ赤な牡丹の花。


長崎は、全国で2番目のジャガイモの産地らしい。知らんかった。1位はもちろん北海道。


長崎のだんだん畑の淵は、小さな石を積んでできている。


小浜に到着。
こちらの小浜も、北陸の小浜と同じく、オバマ大統領にちなんでいろいろやってるらしい。


町のあちこちから上がる湯気。


♨のマークは、温泉に行ったらまず、軽く一回食事の前にお風呂に入り、食後にゆっくりともう一回入り、翌日の朝にもう一回、合計3回入るといいよ、という意味があるらしい。
ほんまかな~と思いつつ、せっかくやからと、今回は両日とも、言われた通りに3回入った。

こちらのお湯は白濁していて、硫黄の匂いがほわほわと漂う。
翌日、湯冷めすると困るので、夜が明ける前に(わたしにしては奇跡のような出来事?!)、義父と一緒に地獄巡りに行ってみた。
  







途中の、非常に分かりにくい、これは絶対通り過ぎるやろ!と思う所にあった、殉教者の碑。






再び地獄へ。


















7歳の頃、阿蘇の地獄巡りに連れてってもろた。
そこをグルグル回りながら、真っ赤なお湯がボコボコと音をたてて煮たってる通称『血の池地獄』を、怖そうに眺めてたわたしのすぐ後ろにいた母が、
「あんたな、ウソついたらここまで連れてこられて、あの中に引きずり込まれるんやからな」と、低い声で母が言うた。
その時の声と、硫黄の生臭い匂いと、ボコボコという鈍い音と真っ赤な色を、わたしはまだ覚えてる。

二日目のお宿、雲仙へ。

今から24年ほど前の1990年の11月に、噴火活動が始まった普賢岳。
小さい噴火をくり返してて、避難勧告も出てたけど、それを無視して近づき過ぎてた研究者やマスコミ関係者、そしてその人たちを護衛するための消防団員や送り迎えのタクシー運転手さんなど、40人以上もの人が、
噴火の開始から半年以上も経った1991年の6月3日、突如起こった大きな火砕流に襲われて亡くなった。

当時の様子を、その当時まだ生まれてなかったほのかちゃんが、詳しく説明してくれた。
『マスコミ関係者などが死んだ「定点」は、避難勧告がでていた。
危険地域であることを示すため、公的機関の観測員、消防団員も勧告地域から撤退していた。
しかし、マスコミ関係者は強制力がないことから、雇い挙げたタクシーとともに、避難勧告地域内の「定点」に詰めていた。

そんな中、避難して無人の住民の家に、無断で上がり込み、電気、電話を無断使用する事件が起こった。
住民に不安が高まり、そのためもあって、いったん避難勧告区域外に撤退していた地元消防団は、ふたたび避難勧告地域内に入り、見回りを始めていた。
これらのマスコミ関係者、タクシー運転手、消防団員、許可を得て中に入っていた地元住民一名が、火砕流に巻き込まれ死んだ。
消防団員以外の地元犠牲者は5名。
それ以外が約35名。
避難勧告地域の境界で検問をやっていた警察官2名は、火砕流発生の連絡を聞き、中の人たちに知らせるために勧告地域内に入り、殉職した。

火砕流の到達範囲は、まさに、避難勧告地域内におさまっていた。
避難勧告をマスコミが守ってさえいれば、死者数ははるかに少なくて済んだに違いない』

その普賢岳に近づいてきた。


壮大な佇まいを見せる普賢岳。


ロープウェイの発着所兼休憩所が、左上方にポツンと見える。


長崎に着いてから、ずっと暖かやったけど、さすがにここは寒い。めちゃくちゃ寒い。


火砕流が流れた所。


どうしてだか、撮影のクルーが来てた。


いよいよこの旅一番のお楽しみ、イルカちゃん見学。
ちっちゃな船に乗るので、よう揺れるし、絶対に観られるとは限らないと念を押されまくり、義父は不参加。
こういうことには絶対に参加する母は、多分最年長。
そういや去年は、一緒に象さんに乗ったっけ。

びっくりするほど速いスピードで、ガンガン飛ばす漁師さん。
どこまで行くんやろ……と心配になってきた時……あっ!イルカ!と叫ぶ声が。


いつの間に!


不思議なことに、船の右側では灰色イルカが、左側では真っ黒イルカが、それぞれ群れを作って泳いでた。


漁師さんたちとイルカの間に芽生えた、不思議な信頼感。

イルカはどんどん増えてきて、ずいぶんと長い間、船の周りを泳いでた。


我々がイルカ見学をしている間、バスに残った人たちは、フェリーで天草の方に渡り、そこで我々と合流。
お昼は、浜で獲れた海鮮の地獄焼き。焼かれてる方にとったら、ほんまに地獄やろう……すんません。


天草四郎さんの銅像の前で記念写真。母はもちろんプイッとどっかに消えてしまい、不参加……あっぱれ!

熊本にちょこっと入り、くまもんをあちこちで見て、最後に海とお別れした。


今回の長崎の旅は、原爆に関連するものではなかったけれども、ガイドさんの話の中に何度も出てきた。
もし長崎が、広島みたいに平地が多い地形やったら、山にぐるりと囲まれた特殊な地形やなかったら、被害は何十倍も酷かったやろう。
プルトニウムの恐ろしさは、当時も今も、全くきちんと説明されてない。大丈夫なんかなあ……いや、大丈夫なわけがない。

戦争は、武器商人や軍人が、自分らの欲や願いを叶えるがために、市民をまるで駒のように使い、痛めつけ、洗脳し、人殺しや町の破壊は仕方が無いことにしてしまう、
この世にあってはならん物事の中のひとつ。
愛と信仰の町、長崎は、戦争を心から憎み、戦争の無い世界の実現を町ぐるみで祈る。

たった二日半の長崎やったけれども、何気ない毎日の連続のように見える日常に、深い悲しみと痛み、それを乗り越えてきた底力、そしてなによりも、平和を願う愛に、ずっと包まれてたような気がする。
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ざ・おとうと

2014年01月15日 | 家族とわたし
浜名湖から戻り、今度は弟の新居へゴー!

8才から15才まで、毎週土曜日のお昼から夕方にかけて、超~スパルタな音楽教育を受けに通った上六の駅。変わったなあ……。
まさか、新歌舞伎座まで建つとは……。


同じワンルームマンションに20年も暮らしてた弟と相方の福ちゃん。
念願の新居に引っ越したということで、ぜひぜひ拝見と、小姑のわたしは出かけてった。
せっかくのお正月休みにごめんね。

引っ越しに伴って、いろいろと新調したブツが並ぶ、居間兼キッチン。


冷蔵庫も灯りも、それから空調も、すべて省エネやから、すご~く違うらしい、光熱費が。
うちの、チビのくせに、ゴウゴウと唸り声を上げる冷蔵庫くんに、ちょっと聞かせたいような話。

夕飯は、わたしの無理強いでご馳走させてもらい、翌日のお昼に、弟が買うて用意してくれてあったズワイガニをご馳走になった。
なんと、この時かなり名前が有名になってたマルハさんのん。


見事なおみ足!


慣れた手つきで捌いてってくれる元調理人。


軍手をしてても手がかじかんで痛いらしい……。横で眺めてるだけの姉を許せ!


いよいよ焼き焼きタイム!


わたしはこの、パソコン画面に映ったカニさんの写真を、これまでずっと、じゅわ~っとよだれを溜めながら眺めていたのだった。
いやもう、このカホリの旨さというたら……お伝えできないのがひじょ~に残念!なんちて……。

ざ・おとうと!!


お祝いのシャンペン付き♪


あ~も~超~美味しかった!!おおきに!!

わたしが興味がありそうな番組をあれこれ録画してくれてたのんと、『永遠のゼロ』という本と、そしてこの万華鏡をもらった。




翌日の長崎旅行の出発は、名古屋を朝7時というトンデモな早さなので、急きょ、名古屋駅の近くのビジネスホテルに泊まることに。
なので、久しぶりの近鉄特急!
上六から名古屋までは早く売り切れるかもと、弟が切符を先に買いに行ってくれたのは正解やった。

帰りの電車の中で、クルクル回して眺めてみる。
めっちゃおもろい!
『永遠のゼロ』も読んでみる。
めっちゃ辛い!
戦争というものが、いかに愚かしい、普通の市民を痛めつけ苦しめるだけの悪事であるか、それをほんの数十ページ読んだだけで痛感させられる。

戦争の無い世界を、絶対にあきらめたらあかん。
絶対に、日本を、戦争をする国にしたらあかん。

豊、福ちゃん、楽しい、美味しい時間をありがとう!
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2014年・初日の出

2014年01月15日 | 家族とわたし
クリスマスの翌日、バタバタと荷物詰めをして出発!
旦那にニューアーク空港まで送ってもらい、そこから成田経由で名古屋まで。


やっぱり今の時代、携帯電話は必需品ですね。
飛行機がかなり遅れてしまい、名古屋から三重にある母の家までの列車をどれに乗るか、それを伝えるのに公衆電話を必死になって探すのですが、見つけるのが年々難しくなっているような気がします。
案の定、きちんと伝える間が無くて、駅に着いた早々、雪が舞い散る北風の中、半時間ほど待つことに。
そしてやっと迎えにきてくれた母は開口一番、「あんた、なんでこんなとこで待ってんのん?」
怒ってます。
「長旅お疲れさん」も、「寒かったやろ」も、「待たせて悪かったね」もありません。
外以外待つ所が無かったけれども、先に着いて外で待ってたわたしが悪い。
なかなかの母っぷりです。
疲れていたのと寒かったので、すっかり頭がボォ~っとしてしまい、車の中で無口になっていると、またまた機嫌が悪くなる母。
う~ん……2週間、もつかなあ……。

でも今回は、2週間のうち6日間は旅行だし、弟のうちにも行くしで、みんなでワイワイがやがややってるうちに時間は過ぎていくことでしょう。

浜名湖が見えてきました。
住み慣れた琵琶湖よりはちっちゃいのでしょうけども、それでもデカい!


途中のドライブインで。
右端の女性、今年80才を迎える母です。なんというすっきりした立ち姿!


宿に着いたら夕焼け時で、思わずカメラでパチリ。


その浜名湖の真ん前に建つ旅館の、4階の角部屋、6人が泊まれる部屋を予約してくれてた母。
全室、湖に面しているというこの宿の部屋からは、鳥居が真正面に見えます。


この温泉のお湯は茶色で、いかにも滋養に良さそう。
ただ、底が見えないのに、浴槽の縁には段差も手すりも無く、湯船に入るのにみんなが四苦八苦。
温泉に入りに来てひっくり返り、骨折ぅ~なんてことになったらシャレにならないですよね~と、みんなで苦笑い。

そして翌日、念願の初日の出を拝みに、明け方の6時半ぐらいから外に出ました。


お日様は意外な所から出現!


今年も、みんなの健康と無事をお守りください。

年が明けて元旦。
どこにも行かず(行ってもな~んにも無さそう)、テレビで駅伝を観ながらゴロゴロ。
窓の外の、湖と海の汐の満ち引きを眺めつつ。
 







翌2日の日の出。今度は外に出ず、部屋の窓からパチリ。そしたらなんと、煙突の間から出てきました!


蘭風という名前のお宿。
布団敷きは各々でやり、食事は大広間でバイキングという形式を取り、その代わりに宿代を他の所より安くする、というお宿ですが、
料理の一品一品がとても美味しく、きめ細やかな味付けがされていましたし、お湯もとても良かったので、お勧めです。
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