わたしは今、先月の終わりに、やっとの思いで仕上げた(仕上げたことに無理矢理した)自作の曲を、ちゃんと演奏できるよう練習している最中です。
その曲は、生まれてからかなり長い年月が経っているわたしが、初めてひとつの作品としてまともに取り組み、長い時間をかけて(音符がひとつも出てこない日の方が多かったのですが……)創ったものです。
そのきっかけは、東北地方を襲った大震災、そして原発の重大事故であり、あの日々から3年以上も経つというのに、まるで何事も無かったかのようなふりをし続ける国への怒りでした。
毎日毎日、調べたり考えたり書いたりしながら、被害に遭われた方々を思ううちに、ある講義で、たった3日の間で仕上げさせられた短い曲のテーマが蘇ってきました。
このテーマで曲を創ろう。
命を亡くされた方々、被災された方々、懸命に新たな生活を築こうと努力されている方々を思いながら、音を紡ごう。
そんな思いで創った曲です。
わたしの心と、ピアノの音と、そしてサラが演奏するバイオリンの音は、日本とつながっています。
今日の記事のはじめは、フェイスブックで知り合ったHiroshi Hasegawa さんが、去年の10月の初旬に、南相馬市と浪江町に行かれた際の記録です。
この3年の間に、わたしはそれまで全く見ず知らずだったたくさんの方々と、知り合うことができました。
Hiroshiさんもその中のひとりです。
被災地の復興と放射能汚染の現状。
その場に居てこそ知り得ることだということは、十分に分かっています。
その場に身をおかず、自分の目で見ず、耳で聞いてもいないのに、好き勝手なことを言うなと、これまでも何度も何度も非難されました。
だからこれからも、わたしはたくさんの記事を読み、意見を聞き、考え続けていかなければならないと思っています。
そしてこの思いだけは、何を言われようと変えないと思っています。
子どもを救わなければならない。
子どもとともに、家族も救わなければならない。
そのために、村が、町が、市が、地図の上から消え、新たな場所に復活するというような、大変な過程を支える国の支援を、全国の市民によって強く要請しなければなりません。
願いを、祈りを、行動に移せる人が、ひとりひとりと増えていきますように。
↓以下、転載はじめ
南相馬市・浪江町訪問
10/5/2013
10月6日(日)、10月7日(月)の2日間、福島県南相馬市・浪江町に行ってきました。
今回が4回目の訪問になる南相馬市では、6日(日)は番場ゼミナールで学習支援。
センター試験英語長文問題対策講座、ということでしたが、
なんとまったく同じ日時に、AKBが南相馬に来てイベントに出演することが判明…!!
「学生さんたちみんなAKBの方に行っちゃって誰も来ないかも…」
「誰も来なかったら私たちもAKB見に行きましょうか…?(苦笑)」
などとSachiko Bamba先生とお話ししていましたが、学生たちちゃんと来てくれました…!
翌7日(月)は浪江町の「希望の牧場・ふくしま」訪問。
毎時3~4マイクロシーベルト台の高線量の牧場の入り口には、
「決死救命、団結」と書かれたブルドーザー。
牧場内では、牛たちが草を食んでいた。
牧場長の吉沢正巳(まさみ)氏とお会いしてお話しできた。
自宅から福島原発の排気塔が見える14kmの至近距離で、
3号機の2度の爆発音を聞いたという。
一時は避難を余儀なくされたが、
警察の静止を振り切って牧場に通い、牛にえさや水を与えた。
牛は汚染のため出荷できず殺処分を命じられたが、
吉沢氏はそれに抵抗し、高線量の牧場に戻って、
3百数十頭いる牛の世話を続けている。
吉沢氏の父親は満蒙開拓団に加わったが、
戦争で「棄民」の扱いを受け、
苦労してこの牧場を開いた。
吉沢氏は今福島県民が「棄民」の扱いを受けていることに憤る。
出荷の見込みのない「汚染牛」の飼育を続けても、
問題の「解決」の見通しは見えない。
でもそれでは吉沢氏が牛たちの飼育をあきらめ、
この牧場を捨てて仮設住宅にでも入れば、
問題は「解決」するのだろうか?
問題は「見えなくなる」だけだ。
吉沢氏の抵抗は、福島の抱えるまだ終わりの見えない問題をあえて「可視化」して、
(オリンピックなどと浮かれている!)私たちにつきつけている。
吉沢氏の闘いを追った、APF通信のジャーナリスト針谷勉(はりがやつとむ)氏のルポ「原発一揆」。
必読です!
http://www.amazon.co.jp/dp/4904209222/
原発一揆~警戒区域で闘い続ける“ベコ屋"の記録
遠く神奈川県茅ケ崎市から、南相馬市に通い続け、市民にとって貴重な医療支援を続けられているMasatoshi Nakao医師。
草を食む牛たちの向こうに、東京に電気を送る鉄塔・高圧線が見える。
牧場長の吉沢氏と、牛の頭蓋骨が飾られた牛のオブジェの前で。
牧場の線量。
↑以上、転載おわり
↓そしてここからは、飯館村農民見習い伊藤延由氏が、3月22日にツィッターでつぶやいておられた言葉と写真です。
ここは最近新設されたMP、道の駅“まごころ”。
ここは金網もなく、MPの頭頂部で測定。
MPは0.805μSv/hを示しているが、写真の通り、5割の差は何なのだ。
機器類だから誤差はあるとしても、許される範囲ではない。
農業の復興に、ため池の除染は欠かせない要件。
しかしため池は、除染で一旦は綺麗になりますが、何処から水が流れ込むのでしょうか?
私のいい加減な調査でも、腐葉土は5~10万㏃だ。
これを、賽の河原の石積みと言う。
業者は泣いて喜ぶ。
国は総力を上げ、原発事故は終わった事にしているが、震災の関連死が直接死を上回った。
関連死とは、避難途中や、仮設など避難先で死亡し、災害弔慰金が支給された死者。
避難が長引けば、更に続く。
だから、今急ぐべきは除染ではなく、復興住宅建設が最優先の課題。
福島大学で開催された、国連人権理事会の特別報告者アナンド・グローバー氏の報告を報じる毎日新聞記事。
記事の内容は、日本政府が決めた安全基準などに、疑問を呈している。
私が問題にしたいのは、地元紙が一切触れない事。
何故なのか?
やはり舌を抜かれた。
↑以上、転載おわり
そしてこれらは、福島に厳然と実在する現実として、わたし自身が心にとめておけるよう、パソコン画面に載せている写真です。
当時(2013年11月9日)小佐古教授は、この報道を受け、
「この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは学問上の見地からのみならず、わたしのヒューマニズムからしても受け入れ難い」とおっしゃいました。
その曲は、生まれてからかなり長い年月が経っているわたしが、初めてひとつの作品としてまともに取り組み、長い時間をかけて(音符がひとつも出てこない日の方が多かったのですが……)創ったものです。
そのきっかけは、東北地方を襲った大震災、そして原発の重大事故であり、あの日々から3年以上も経つというのに、まるで何事も無かったかのようなふりをし続ける国への怒りでした。
毎日毎日、調べたり考えたり書いたりしながら、被害に遭われた方々を思ううちに、ある講義で、たった3日の間で仕上げさせられた短い曲のテーマが蘇ってきました。
このテーマで曲を創ろう。
命を亡くされた方々、被災された方々、懸命に新たな生活を築こうと努力されている方々を思いながら、音を紡ごう。
そんな思いで創った曲です。
わたしの心と、ピアノの音と、そしてサラが演奏するバイオリンの音は、日本とつながっています。
今日の記事のはじめは、フェイスブックで知り合ったHiroshi Hasegawa さんが、去年の10月の初旬に、南相馬市と浪江町に行かれた際の記録です。
この3年の間に、わたしはそれまで全く見ず知らずだったたくさんの方々と、知り合うことができました。
Hiroshiさんもその中のひとりです。
被災地の復興と放射能汚染の現状。
その場に居てこそ知り得ることだということは、十分に分かっています。
その場に身をおかず、自分の目で見ず、耳で聞いてもいないのに、好き勝手なことを言うなと、これまでも何度も何度も非難されました。
だからこれからも、わたしはたくさんの記事を読み、意見を聞き、考え続けていかなければならないと思っています。
そしてこの思いだけは、何を言われようと変えないと思っています。
子どもを救わなければならない。
子どもとともに、家族も救わなければならない。
そのために、村が、町が、市が、地図の上から消え、新たな場所に復活するというような、大変な過程を支える国の支援を、全国の市民によって強く要請しなければなりません。
願いを、祈りを、行動に移せる人が、ひとりひとりと増えていきますように。
↓以下、転載はじめ
南相馬市・浪江町訪問
10/5/2013
10月6日(日)、10月7日(月)の2日間、福島県南相馬市・浪江町に行ってきました。
今回が4回目の訪問になる南相馬市では、6日(日)は番場ゼミナールで学習支援。
センター試験英語長文問題対策講座、ということでしたが、
なんとまったく同じ日時に、AKBが南相馬に来てイベントに出演することが判明…!!
「学生さんたちみんなAKBの方に行っちゃって誰も来ないかも…」
「誰も来なかったら私たちもAKB見に行きましょうか…?(苦笑)」
などとSachiko Bamba先生とお話ししていましたが、学生たちちゃんと来てくれました…!
翌7日(月)は浪江町の「希望の牧場・ふくしま」訪問。
毎時3~4マイクロシーベルト台の高線量の牧場の入り口には、
「決死救命、団結」と書かれたブルドーザー。
牧場内では、牛たちが草を食んでいた。
牧場長の吉沢正巳(まさみ)氏とお会いしてお話しできた。
自宅から福島原発の排気塔が見える14kmの至近距離で、
3号機の2度の爆発音を聞いたという。
一時は避難を余儀なくされたが、
警察の静止を振り切って牧場に通い、牛にえさや水を与えた。
牛は汚染のため出荷できず殺処分を命じられたが、
吉沢氏はそれに抵抗し、高線量の牧場に戻って、
3百数十頭いる牛の世話を続けている。
吉沢氏の父親は満蒙開拓団に加わったが、
戦争で「棄民」の扱いを受け、
苦労してこの牧場を開いた。
吉沢氏は今福島県民が「棄民」の扱いを受けていることに憤る。
出荷の見込みのない「汚染牛」の飼育を続けても、
問題の「解決」の見通しは見えない。
でもそれでは吉沢氏が牛たちの飼育をあきらめ、
この牧場を捨てて仮設住宅にでも入れば、
問題は「解決」するのだろうか?
問題は「見えなくなる」だけだ。
吉沢氏の抵抗は、福島の抱えるまだ終わりの見えない問題をあえて「可視化」して、
(オリンピックなどと浮かれている!)私たちにつきつけている。
吉沢氏の闘いを追った、APF通信のジャーナリスト針谷勉(はりがやつとむ)氏のルポ「原発一揆」。
必読です!
http://www.amazon.co.jp/dp/4904209222/
原発一揆~警戒区域で闘い続ける“ベコ屋"の記録
遠く神奈川県茅ケ崎市から、南相馬市に通い続け、市民にとって貴重な医療支援を続けられているMasatoshi Nakao医師。
草を食む牛たちの向こうに、東京に電気を送る鉄塔・高圧線が見える。
牧場長の吉沢氏と、牛の頭蓋骨が飾られた牛のオブジェの前で。
牧場の線量。
↑以上、転載おわり
↓そしてここからは、飯館村農民見習い伊藤延由氏が、3月22日にツィッターでつぶやいておられた言葉と写真です。
ここは最近新設されたMP、道の駅“まごころ”。
ここは金網もなく、MPの頭頂部で測定。
MPは0.805μSv/hを示しているが、写真の通り、5割の差は何なのだ。
機器類だから誤差はあるとしても、許される範囲ではない。
農業の復興に、ため池の除染は欠かせない要件。
しかしため池は、除染で一旦は綺麗になりますが、何処から水が流れ込むのでしょうか?
私のいい加減な調査でも、腐葉土は5~10万㏃だ。
これを、賽の河原の石積みと言う。
業者は泣いて喜ぶ。
国は総力を上げ、原発事故は終わった事にしているが、震災の関連死が直接死を上回った。
関連死とは、避難途中や、仮設など避難先で死亡し、災害弔慰金が支給された死者。
避難が長引けば、更に続く。
だから、今急ぐべきは除染ではなく、復興住宅建設が最優先の課題。
福島大学で開催された、国連人権理事会の特別報告者アナンド・グローバー氏の報告を報じる毎日新聞記事。
記事の内容は、日本政府が決めた安全基準などに、疑問を呈している。
私が問題にしたいのは、地元紙が一切触れない事。
何故なのか?
やはり舌を抜かれた。
↑以上、転載おわり
そしてこれらは、福島に厳然と実在する現実として、わたし自身が心にとめておけるよう、パソコン画面に載せている写真です。
当時(2013年11月9日)小佐古教授は、この報道を受け、
「この数値を乳児、幼児、小学生に求めることは学問上の見地からのみならず、わたしのヒューマニズムからしても受け入れ難い」とおっしゃいました。